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徳川幕府の中枢となった巨城

江戸城

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江戸城は日本最大の城でありながら、現在は皇居となり、残された建造物も少なく、当時の姿はなかなか想起しにくい。しかし、総面積では大坂城、名古屋城をはるかにしのぐ、世界最大規模の城郭である。もともとは小さな城だった江戸城を大増築したのは、家康が征夷大将軍になってからのことだった。

◎所在地:東京都千代田区千代田 ◎主な築城:長禄元年(1457年)太田道灌 慶長8年(1603年)徳川家康

徳川家康の関東移封は
フロンティア市場の開拓

皇居(旧:江戸城)全景の画像
皇居(旧:江戸城)全景

これまで9回にわたって、国宝五城をはじめ、日本を代表する城について掘り下げてきた。だが、日本最大の城でありながら、まだ取り上げていない城がある。「江戸城」である。現在は皇居となり、残された建造物も少なく、当時の姿はなかなか想起しにくい。しかし、総面積では大坂城、名古屋城をはるかにしのぐ、世界最大規模の城郭である。天守や本丸があった現在の皇居東御苑を歩くだけで、そのスケールの大きさを実感できる。

徳川家康の所領の変化(上が小田原制圧前、下が後)の画像
徳川家康の所領の変化(上が小田原制圧前、下が後)

もともとの江戸城は太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏の時代も江戸は寒村にすぎなかった。現在の日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。
転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の7国である。だが、これまでの領地、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東の領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康を大坂から遠ざけるための秀吉の計略である。

徳川家康像(堺市博物館 蔵)の画像
徳川家康像(堺市博物館 蔵)

関東の本拠地として江戸を勧めたのも秀吉だとされる。大都市として理想的な条件を備えた大坂と江戸の地形は共通点が多いというのがその理由だ。大坂が瀬戸内海の最深部にあるように、江戸も湾岸の深部にあった。大坂が淀川の河口にあるのに対して、江戸は隅田川の河口にあり、背後に大きな平野が広がっていた。日本各地の地理を把握し、なおかつ100もの城を築いた秀吉は、土木工事のエキスパートでもあり、江戸が多大なポテンシャルを秘めた土地であることを見抜いていた。ただし、インフラの整備には膨大な費用と労力、そして長大な時間を必要とする。
この江戸の開発を自らの子飼いの大名ではなく、ライバルの家康にまかせたのが秀吉の老獪なところである。家康の置かれた状況を現代のビジネスに置き換えると、表面上は栄転でも実質的には左遷も同然で、未開拓市場の開発という難易度の高いミッションも課せられている。家康としては秀吉の推す江戸を無視することはできない。このピンチに家康はどう立ち向かったのか。

江戸城のプロジェクトは
「ブルーオーシャン戦略」

家康が江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地に変えていく。なかでも大規模な工事となったのが、文禄3年(1594年)に開始した「利根川東遷」である。当時の利根川は江戸を流れていて、しばしば大洪水を起こしていた。そこで利根川の流れを銚子に注ぐように変える治水工事を行ったのである。工事がすべて完了したのは承応3年(1654年)、四代将軍・家綱の時代だった。60年におよぶ大事業である。この工事のおかげで、新田開発も飛躍的に進み、関東平野は日本最大の穀倉地帯となった。

利根川東遷の過程 左から5000年前、1000年前、東遷が完成したときの利根川(利根川上流河川事務所ホームページ 蔵)の画像
利根川東遷の過程 左から5000年前、1000年前、東遷が完成したときの利根川
(利根川上流河川事務所ホームページ 蔵)
加藤清正(本妙寺蔵 熊本県立博物館 撮影)の画像藤堂高虎(伊賀文化産業協会 蔵)の画像
加藤清正(本妙寺蔵 熊本県立博物館 撮影)
藤堂高虎(伊賀文化産業協会 蔵)

左:加藤清正(本妙寺蔵 熊本県立博物館 撮影)
右:藤堂高虎(伊賀文化産業協会 蔵)

徳川家康が江戸城の拡張に着手するのは、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)である。江戸に本拠を構えてから、すでに10年以上の歳月がたっている。家康はこの時機を待っていたのかもしれない。将軍ともなれば、自分の好きなように城を築けるからである。江戸城は全国の大名に協力を要請する天下普請(てんかぶしん)によって建造された。加藤清正、藤堂高虎といった築城の名手をはじめ、すぐれた築城技術をもった前田、細川、池田、毛利、黒田など名だたる大名たちが参加した。この工事は三代将軍の家光の代まで続くことになる。
天下普請による築城は費用も人材も資材もすべて大名たちの持ち出しであり、経済的に大きな負担となった。徳川に刃向かう可能性のある豊臣恩顧の大名たちの力を削ぐうえでも有効な策であり、この築城の方法はのちの名古屋城にも踏襲されるのである。

経営には「ブルーオーシャン戦略」という考え方がある。血を流すような競争の激しい既存市場「レッドオーシャン(赤い海)」よりも、競争の少ない未開拓市場「ブルーオーシャン(青い海)」を狙うべきという理論だ。家康が江戸で行ったプロジェクトは、この「ブルーオーシャン戦略」に近い。家康は秀吉の目の届かない関東で誰にも邪魔されることなく、新田開発や市場育成を行い、じっくりと力を蓄えていく。文禄元年(1592年)にはじまる秀吉の朝鮮出兵の際は地理的に遠いこともあり、参加が免除された。これも大きなアドバンテージとなった。
家康の事業は一代で終わるものではなく、二代目の秀忠、三代目の家光へと受け継がれていく。まるで都市計画のデベロッパーのように、長期的なビジョンや事業計画を実現させた。治水を行い、農地を広げ、人口を増やし、市場を拡大するなど、その功績は計り知れない。家康は江戸のみならず、日本経済を大きく成長させた、空前絶後のカリスマ経営者だったといえる。

ガバナンスの舞台装置として機能した
本丸御殿

家康が江戸城の拡張に着手した当時、すでに豊臣秀吉はこの世を去っていたが、大坂城にはまだ秀頼がいた。豊臣恩顧の西国大名たちもいつ反旗をひるがえすかわからない。したがって江戸城は当然のごとく「戦う城」としての高い防御力を備えていた。広い堀に堅固な高石垣、侵入した敵を罠にかける枡形門も数多く備えていた。櫓も全部で19あったといわれる。巨大で強固な門が多いのが特徴で、縄張をシンプルにしながらも、堅牢な門構えで敵を阻止する設計になっていた。

将軍の居城である江戸城は政治の中心となり、表、中奥、大奥で構成される800もの建物群を備えた巨大な本丸御殿が築かれる。最初の本丸御殿は慶長11年(1606年)に完成するが、何度も焼失と再建を繰り返した。文久3年(1863年)に焼失してからは再建されることがなかった。現在は皇居東御苑に本丸御殿のあとが公園として残されているが、その広大さには驚かされる。
NHKのBSで放映されたドキュメンタリー『よみがえる江戸城』では、本丸御殿がコンピュータ・グラフィックやスタジオセットで忠実に再現された。御殿が単なる将軍の居城ではなく、徳川の権力を絶対化する舞台装置だったことが明かされている。

江戸城 虎之間(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)の画像
江戸城 虎之間 縮図
(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)
「徳川盛世録」より江戸城 大広間(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)の画像
「徳川盛世録」より江戸城 大広間
(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)
江戸城 虎之間(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)の画像
「徳川盛世録」より江戸城 大広間(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)の画像
上:江戸城 虎之間 縮図
(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)
下:「徳川盛世録」より江戸城 大広間
(国立公文書館デジタルアーカイブ 蔵)

たとえば、将軍に謁見する大名たちの控え部屋である「虎之間」の四方には、狩野派の描いた巨大な虎の障壁画があり、見るものを威圧したという。戦がなくなり大名たちに徳川の武力を示す機会がなくなったため、武威の象徴である虎で徳川の強さを印象づけたといわれている。
また将軍と謁見する「大広間」は上段に将軍が座り、あとは中段、下段、さらに二之間、三之間、四之間と格付けがあり、大名の位によって座る位置が厳格に定められていた。障壁画には繁栄の象徴である巨大な松と長寿の象徴である鶴が、やはり狩野派によって描かれていた。これも徳川権力の永続性を強調するものだ。秀吉は天守の壮麗な外観によって天下人の威光を示したが、徳川の時代は城内部における空間演出や儀礼によって支配を強化したのである。

江戸城天守と高さ比べ(東京都立中央図書館 蔵)の画像
江江戸城天守と高さ比べ
(東京都立中央図書館 蔵)

江戸城内にはかつて巨大な天守がそびえ立っていた。最初に家康が建てた天守を二代目の秀忠が改築、さらに三代目の家光が建て直した。家光の天守は5層6階の層塔型で、高さが59メートルもあったという。この高さは姫路城の1.5倍で、現代の20階建てのビルに相当する。
しかし、明暦3年(1657年)、家光の天守は四代将軍・家綱の時代に火災で焼失してしまう。再建のために新たな天守台を築いたところ、家綱を補佐していた会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)が「天下泰平の世に天守は不要。城下町の復旧を優先すべき」と提言し、再建を中止したと伝えられている。現在の江戸城内に残っているのが、このときの天守台である。以来、江戸城内に天守が建てられることはなく、富士見櫓(ふじみやぐら)が天守のかわりとされた。
現代のビジネスでも一度、走り出した計画を中断するのはなかなかむずかしい。だが、当時の幕府の首脳部は財政破綻のリスクを冷静に判断し、赤字を生むプロジェクトを打ち切り、適切な予算配分を行ったのである。こうした徳川の堅実なコーポレートカルチャーこそ、江戸幕府を長期にわたり存続させた要因のひとつといえるだろう。

ストラテジーの発想を広げてくれる
ショーケース

大坂夏の陣により豊臣家が滅んだ直後の元和元年(1615年)、一国一城令が発布される。原則として、ひとつの国ごとに城はひとつしか持てず、それ以外はすべて廃城にしなければならなかった。これにより全国に3,000近くあった城は170まで激減する。また同年に公布した武家諸法度により、城の新築が禁止され、改築や修理にも幕府の許可が必要になる。その結果、めざましい発展を続けてきた築城のテクノロジーは衰退へと向かい、城は軍事要塞というよりも藩の庁舎になっていく。城が武器だとすれば、城の衰退はいわば軍縮である。城の進化が閉ざされたのは残念な気もするが、こうした軍縮政策を徹底したおかげで、徳川の泰平の世が保持されたともいえる。

美しい外観、精緻な造作など城の見どころはさまざまである。だが、あらためてビジネスの側面から城を見たときに、もっとも興味深いのは、「誰がなぜそこに城を築いたのか」という背景を知ることだ。城主たちは、歴戦をくぐり抜けてきた屈強な武将であり、すぐれた知恵をもった戦略家であることが多い。もし自分が築城主だったらという視点で、彼らの構想を追体験してみるのは、歴史に興味があるなしに関わらず知的な刺激を与えてくれる。彼らが立てた戦略は400年の時を経た今もなお参考にすべきところが大いにある。城について知れば知るほど、ビジネスに向き合う発想力が鍛えられるに違いない。

徳川家康像 (堺市博物館 蔵)の画像
豊臣秀吉蔵(高台寺所 提供)、
徳川家康像(堺市博物館 提供)


現在の皇居、江戸城再現CG
(復元:広島大学大学院教授 三浦正幸、
CG制作:(株)エス、
提供:NPO法人 江戸城天守閣を再建する会)
左:豊臣秀吉蔵(高台寺所 提供)、
徳川家康像(堺市博物館 提供)
右:現在の皇居、江戸城再現CG
(復元:広島大学大学院教授 三浦正幸、
CG制作:(株)エス、
提供:NPO法人 江戸城天守閣を再建する会)
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