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石と対話をし使い手の心に寄り添う
~硯~|青栁 貴史

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日本人の多くが一度は使ったことがある硯。日本の毛筆文化を支えてきたこの道具に全身全霊を傾けているのが、製硯師(せいけんし)・青栁貴史氏だ。紀元前から続く製硯の技を受け継ぎながら、月の石で硯をつくったり、アウトドアグッズメーカーと書道セットを共同開発したり、毛筆文化の素晴らしさを子どもたちに伝えるための絵本を出版したりと、新たな領域への挑戦を続けている青栁氏。彼がめざす理想の硯づくりとは──。

※本記事は2023年4月に掲載されたものです。
  • 青栁氏_プロフィール写真_1_1.jpg

    青栁 貴史

    製硯師

    1979年東京・浅草生まれ。浅草で90年続く書道用具専門店「宝研堂」4代目。16歳から祖父と父に作硯(さっけん)を師事。20代から中国の作硯家と交流し、製硯法の研究や石材調査を続けている。2017年、夏目漱石が愛用していた硯を復刻製作。19年にはアウトドアグッズメーカーのモンベルと「野筆セット」を共同開発した。21年、絵本『すずりくん』(あかね書房)を出版。

石の美しさを知り癖を知り弱さを知る

硯(すずり)という漢字は「石を見る」と書く。製硯、すなわち硯をつくる工程において最も重要なことの一つは、素材となる石をよく見て、深く理解することだと、製硯師(せいけんし)の青栁貴史氏は言う。

「自然石は一つひとつ性質や魅力が異なります。その石の美しさを知り、癖を知り、弱さを知ること。そこに時間をかけなければ、優れた硯をつくることは決してできません」

製硯師となって20年以上がたち、数々の硯を手がけてきた今も、石への洞察力はまだ足りないと青栁氏は話す。

石の産地を知らずに硯を彫ることは、地面に足をつけずに歩いているようなものだ。だから、産地には必ず自ら赴く。それが青栁氏の流儀だ。大学中退後に製硯師の父の下で働き始めてからの最初の「仕事」は、中国を訪れることだった。日本にも宮城の雄勝石(おがついし)、山梨の雨畑石(あめばたいし)、山口の赤間石(あかまいし)といった名硯を生み出す石があるが、種類は中国に遠く及ばない。中国の硯石の産地を訪ね、紀元前から続く硯づくりの営みに触れ、石と硯に対する感覚を体に染み込ませること。それが父からの指令だった。以来、中国には何度となく足を運んでいる。

中国では古来、硯作りの職人を「製硯家」と呼ぶ。自ら「製硯師」を名乗るようになったのは三代目の父・彰男氏が名付けたことによる。青栁派の技は、戦後、中国産の硯の改刻や修理を数多く手がける中で磨かれてきた。改刻とは、使い手の要望を受けて、もともとあった硯に手を加える作業を意味する。中国では古来、硯に実用性と鑑賞性を求めてきた。精緻な彫刻を施した硯が多いのはそのためだ。一方、書家をはじめとする日本の硯の使い手は、実用性を重視する傾向がある。そのような使い手の求めに応じて彫刻を削って平らにしたり、硯の背面を削って軽くする「背抜き」と呼ばれる処置を施したりする。それが改刻である。

「祖父も父も、中国の硯にじかに触れることによって、いわば自分の身体感覚を中国流の製硯に寄せていきました。2人に教えを乞うことで、僕もその感覚を受け継いでいます」

「井」の字をあしらった「耕田硯」。中国産硯石にしかない天然眼という模様がある

三日月形の墨池が特徴的な「日月硯」

誰も使ったことがない石で世界にただ一つの硯をつくる

青栁氏の硯石へのこだわりは、いわゆる職人の域をはるかに超えている。硯石は日本各地から産出するが、北海道には硯石の産地はないとされてきた。製硯はもともと文字の発明とともに生まれた技術だ。文字を残すには道具がいる。古代中国の人々は墨、硯、筆、紙の4つの道具をもって文字を残そうとした。この4つを称して「文房四宝」という。だが、文字がなければ文房四宝の用はない。北海道の地に生きるアイヌは、自らの言葉を記す特定の文字を持たない民族だった。だから、製硯の技術も生まれなかった。

「文化的に製硯がなかったとしても、優れた硯石はあるかもしれない。そう考えて、石を探すことにしました。時間はかかりましたが、製硯に適した石を見つけ、それを使って史上初の北海道産硯をつくりました。そこまで3年かかりましたね」

石に対する情熱は、時に成層圏の外にまで及ぶ。隕石や月の石を使った製硯にチャレンジしようと考える硯のつくり手は、青栁氏以外にはいないだろう。

「月の石が硬すぎて製硯に向いていないことは、調査から分かっていました。でも試しに隕石を入手して彫ってみたら、彫る方法が見つかったんです。ならば、月の石でもできるだろうと。問題は、月の石をどこから入手するかでした」

それは思わぬところで手に入った。東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催されていた鉱物マーケットである。そこで親指ほどの大きさの月の石を購入し、硯に仕立てた。

「月の石で墨を磨(す)って、小筆を使って手紙を書く。そんな経験を子どもたちにさせてあげたいと思いました。記憶に残るだけでなく、硯は石からできていること、日本の毛筆文化を支えてきたのが石であることを改めて実感してもらえると考えたからです」

月の石でつくった硯。表面で墨を磨り、小筆に墨をつけて文字を書く。大人の親指ほどの大きさだ

青栁氏の製硯のもう一つのこだわりは、依頼主の気持ちに寄り添うことだ。特に一から作硯する場合は、長い時間をかけてヒアリングをして、依頼主がどのような硯を求めているかを深く理解する作業が不可欠であると青栁氏は言う。

「使い手の気持ちを知って、どのような石を使うべきか、どのような硯式(硯のデザイン)が最適なのかを考えます。石を硯にする技そのものは、1年程度で身につけることができます。しかし、使い手の気持ちに本当の意味で寄り添える心を養うには、長い年月がかかります。それができて初めて一人前の硯のつくり手になれる。そう僕は思っています」

ものづくりの「心」を座学で教えることはできない

職人が自ら手がけた製作物に自らの名を刻むことを「銘を切る」という。しかし、青栁氏が硯に銘を切ることはほとんどない。例外は、依頼主から強い要望があった場合のみだ。

「祖父も父も銘を切ることはありませんでした。もし名前を彫るとすれば、使い手の名を彫るべきである。それが青栁派の考え方です。僕がめざしているのは、"無名の名工"として優れた仕事を後世に残していくことです。100年後、200年後の人が、僕がつくった硯を見て、"誰がつくったか分からないけれど、うまい硯だ"と思ってくれることが僕の望みです」

一流の職人の矜持(きょうじ)にして謙譲の美学と言うべきだろう。

製硯のプロセス

硯式に合わせて石から切り出した硯を大小の鑿(のみ)で彫って、墨を溜める「墨池」や墨を磨る「丘」をつくる。

その後、研石やサンドペーパーなどを使って表面を丹念に磨き上げる。

最後に墨と漆を塗りこんで表面をコーティングし、割れにくい堅牢な硯に仕上げる。

若い世代に「墨で文字を書く」ことの魅力を伝え、毛筆文化を継承していくこと。一人のクラフトマンとして継続的に良質な硯をつくり続けること。それが製硯師としての目標であると青栁氏は話す。もう一つ大きな目標がある。後継者を育てていくことだ。

「僕は今43歳ですが、60歳を目標に製硯技術の幅と奥行きを整えたいと思っています。しかし、その技術を持ってそのまま死んでしまっては、製硯の文化を残すことはできません。若い世代に技術を伝えることが必要だと思っています。もちろん大事なのは技術だけではありません。ものづくりの心を継承していくことが何より大切です。心を座学で教えることはできません。一緒に働き、一緒に食事をし、語り合い、一緒に切磋琢磨していく。そんな営みが絶対に欠かせません」

そうして多くの時をともに過ごしてきた一人の若い弟子が、最近青栁氏のもとから巣立っていった。現在も3人の若者が師のかたわらで硯づくりを学んでいる。

「青栁派を受け継ぐのは、必ずしも青栁家の人間でなくてもいいと僕は思っています。その時代ごとに、本当にやる気のある人が、全身全霊で取り組むことで文化は継承され、持続していく。そう考えています」

江戸時代の人々にとって、毛筆と硯は日常の道具だった。現代の私たちにとって、毛筆文化は必ずしもなじみのあるものではなくなってしまっている。

「毛筆文化を残していくには、墨と筆を使ってものを書くという行為をもっとカジュアルなものにしていく必要があります。必ずしも、背筋を伸ばして上手に書かなければいけないものではないんだよ。そんなことを子どもたちに伝えて、墨で書くことの楽しさを広めていきたいですね」

取材後記

青栁さんの曽祖父が開業した東京・浅草の書道用具店「宝研堂」の中にある工房で取材と撮影をさせていただきました。メディアに登場することも多い青栁さんですが、この日の取材でも、立ち居振る舞いや話しぶりのすべてが絵になる格好よさ。相手の目をまっすぐに見て、情熱的に、かつ言葉を丁寧に選びながら話すその姿には、硯に人生をかけた一人の男性の生き様のようなものが感じられました。これからも素晴らしい硯をつくり続けていただきたいです。

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