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つなぎあう思い

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過去6回の冬季パラリンピック大会で5つのメダルを獲得してきたパラノルディックスキー界のレジェンド新田佳浩と、彼を目標にしてクロスカントリースキー選手となった川除大輝。ともに出場した北京大会で、彼らは何をめざし、何をつかんだのか──。師弟にしてライバルでもあった2人が共有したパラスポーツの魂は、未来の世代へと受け継がれていく。

※本記事は2022年9月に掲載されたものです

新田佳浩(にった・よしひろ)
新田佳浩(にった・よしひろ)
1980年生まれ。北京大会では、クロスカントリースキー20kmクラシカル立位7位、同1.3kmスプリントフリー立位8位、同オープンリレー7位を記録。
川除大輝(かわよけ・たいき)
川除大輝(かわよけ・たいき)
2001年生まれ。北京大会では、クロスカントリースキー20kmクラシカル立位で金メダル、同1.3kmスプリントフリー立位7位、同オープンリレー7位を記録。

成長:憧れのレジェンドと切磋琢磨した4年間

新田佳浩(右)と川除大輝(左)

最初にパラリンピックに出場したのは、1998年の長野大会だった。その後、平昌大会まで6大会連続出場し、3つの金と、銀、銅合わせて5つのメダルを獲得した。北京大会は42歳で挑んだ7回目のパラリンピックだった。パラノルディックスキーの頂点に立ち続けてきた新田佳浩。誰もが彼を「レジェンド」と呼ぶ。

新田と同じく、日立ソリューションズのパラスポーツチーム「チーム・アウローラ」スキー部のメンバーである川除大輝がパラリンピックをめざしたのは、新田との出会いがきっかけだった。川除が小学校4年生の時、新潟で開催されていたスキー大会を訪れていた新田に、バンクーバー大会の金メダルを首にかけてもらった。新田の背中を追いかける川除の選手人生がそこから始まった。

中学時代からパラノルディック大会に出場。アウローラ ジュニアスキークラブに入部し、高校2年の時に自身初のパラリンピックとなる平昌大会に挑んだ。新田が金銀2つのメダルをとったその大会での個人種目最高位は9位だった。

それからの4年間、川除は大学に籍を置きながら、新田とともに年間200日近くに上る合宿で体と技術を徹底的に磨いた。

「平昌大会の後、海外の選手の動画を何度も見てフォームを研究し、走り方を一から改善しました。自分でも大きな成長を実感できた4年間でした」

そう川除は話す。レジェンドが身近にいる恵まれた環境にあって、学ぶことはあまりにも多かった。

「一番影響を受けたのは、新田さんのストイックな姿勢でした。私生活はとても几帳面だし、長い練習が終わった後もジムに行って汗を流すなど、僕にはなかなかまねができないことばかりでした」

新田の言葉で最も印象に残っているのは、「諦めるな」というひと言だったという。諦めなかったら、絶対チャンスはある──。レジェンドは、川除をそう鼓舞し続けた。この言葉が、後の大舞台で彼に大きな力を与えることとなる。

勝利:表彰台に立った次世代のエース

新田選手が過去の大会で獲得した金メダル
新田が過去の大会で獲得した金メダル

川除にとって2度目のパラリンピックとなる北京大会。かつて新田も務めた選手団の旗手を任されたことで、気持ちが入ったと川除は言う。クロスカントリースキー20kmクラシカル立位では、新田と競い合うことになった。

偉大な先輩をライバルとして挑んだ競技。川除は最終的に52分52秒8を記録した。2位の選手に1分30秒以上の差をつけての、圧倒的な勝利だった。

「メダル獲得をめざしてきましたが、まさか2回目の出場で金メダルを獲れるとは思ってもいませんでした」

表彰台の真ん中に立つ後輩の姿を見て「自分のことのようにうれしかった」と新田は振り返る。苦しいことばかりが続いた4年間だった。新型コロナウイルスの影響で思うような練習ができず、大会の前年には足首を故障し、リハビリに半年以上を費やした。何とか大会に出られるところまで復調したが、自分の体のコンディションは自分自身が一番知っていた。

結果は7位に終わった。ひと言で言えば悔しい。しかし、全力を尽くした。だから気持ちはすっきりしている。そう新田は話す。

クロスカントリー2.5km×4のオープンリレーに新田と2人で挑みたいと言ったのは川除だった。4人まで参加できるリレーをあえて2人で走るのは体力的にも過酷な選択だったが、コーチと新田は川除の思いを受け入れた。憧れの人と2人で勝利をめざしたいという彼の強い思いを。

レースは新田からスタートし、川除につなぎ、再び新田、川除とバトンが渡った。最後に新田から川除につないだ段階での順位は8位。前を行くドイツチームとの差はおよそ1分だった。

はじめの2.5kmを終えてからの、2回目の走り。途中で体力が尽きかけたが、川除の耳には新田から何度も言われたあの言葉が響き続けていた。

諦めるな──。

すべての力を振り絞ってドイツの選手を追い、そして追い抜いた。ゴール目前での逆転。ゴールして雪の上に倒れ込んだ小柄な体のもとへ新田が駆け寄って、その体を抱きしめた。2人の顔に満面の笑顔があふれ、それから新田の頬を大粒の涙が伝った。2人の力で勝ち取った7位入賞だった。

川除は言う。自分以上に新田さんに憧れている人はいない。その人と一緒に入賞できたことが何よりうれしいと。

新田にも悔いはなかった。苦しい日々をともに過ごしてきた後輩であり、同僚であり、ライバルでもある川除と「思いのつなぎあい」ができた。だから、これは最高の結果なのだと。

川除にとっては2回目、新田には7回目の大舞台は幕を閉じた。川除は、新田、車いす陸上競技部の久保恒造に続いて、現在のチーム・アウローラ所属選手として3人目のメダリストとなった。

継承:未来へ向けて思いをつないでいく

川除が北京オリンピックで獲得した金メダル
川除が北京オリンピックで獲得した
金メダル

現在、アウローラのスキー部には、北京大会のクロスカントリースキー15kmクラシカル立位で8位に入賞した阿部友里香を含めて3人のメンバーが所属している。今のチームの課題は、若いメンバーを発掘することだ。新田は言う。

「アウローラは、専任のコーチがいて、合宿を頻繁にできるとても恵まれたチームです。社員の後援会が支えてくれている点も含めて、企業のパラスポーツチームとして、これ以上の環境はないと思います。このチームをこの先10年、20年と存続させるためには、次の世代の選手を招いて、育てていく必要があります」

十数年前、自分と川除がつながったように、川除がジュニアの選手とつながって、その子たちがアウローラのメンバーとなってくれたら、いつの日か世界の主要大会の表彰台をアウローラのメンバーで独占することも夢ではない──。そう新田は語る。そのためには、小中学生に憧れられるようなチームにならなければならない、と。

これまでの新田の役割を果たすことができた時に初めて、レジェンドが背負ってきたものの重さが分かるはず。それが川除の今の気持ちだ。

「新田さんがどんな思いで競技に向き合ってきたのか。それを理解するためにも、僕自身が結果を出し続け、パラスキーの素晴らしさを次世代に伝えていかなければならないと思っています」

次のパラリンピックまでの4年間は決して短い時間ではない。息切れをしないよう、一歩一歩前に進みながら成長していきたいと川除は言う。7大会連続出場。5つのメダル──。レジェンドが成し遂げてきたその偉業に近づき、その思いを未来へと確かにつないでいくために。

新田佳浩(右)と川除大輝(左)

Team AURORA

2004年11月設立。スキー部と車いす陸上競技部合わせて計9人の選手が所属。現在は5人の選手が現役で活動している。チーム名の「AURORA」はイタリア語で「夜明け」を意味する。

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