※本記事は2022年1月に取材をした内容を基に構成しています
スキー部
パラリンピックという
最高の舞台で結果を残すために
変化を恐れず、挑戦を続ける
「正しい答え」は1つではありません
|
1998年の長野大会以降、すべての冬季パラリンピックに出場してきた新田佳浩。2002年ソルトレイクシティ大会では銅メダル、10年バンクーバー大会では2つの金メダル、18年の平昌大会では金・銀両メダルを獲得した日本を代表するパラノルディックスキー選手だ。北京大会で7大会連続の出場となった。
最初のパラリンピック出場は17歳。北京大会は41歳での挑戦だった。
「年齢を重ねて競技力が徐々に落ちてきている中で、本当に自分が出場していいのだろうかという葛藤がありました。しかし出場するのならば、自分をもう一度世界で戦えるところまで持っていかなければならないと、気を引き締めました」
そう新田は話す。モットーは「変化を恐れないこと」だ。
「正解は1つではありません。年齢によっても、体のコンディションによっても正解は変わっていきます。その時その時で最良の形を見つけることが大切だと思っています」
最高の滑りができた時のイメージを頭の中で描き、トレーニングの中でイメージと体の動きを一致させることをめざす。その繰り返しが結果につながると新田は言う。
3歳の時に事故で左腕を切断。その翌年からスキーを始めた。スキー歴は40年近くになる。
「クロスカントリースキーは時間を競う競技なので、滑っている時はいつも1人です。でも、トレーニングにはチームメンバーと一緒に取り組んでいますし、天候や雪質に合わせてスキー板やワックスを選択する際には、スタッフからアドバイスをもらいます。いいチームがあるからこそ、いい滑りができる。いつもそう感じています」
スキーによって変わった人生
スキーのおかげで道が開けました
|
阿部友里香が初めてパラリンピックに出場したのは高校3年生の時。北京大会で3大会続けての出場となった。
2010年のバンクーバー大会をテレビで見て、パラスポーツの存在を初めて知った。自由に動く右腕にストックを持ち、スキーの世界に飛び込んだ。
「それまでは、自分に障がいがあることに引け目を感じていました。でも、スキーに取り組む中でいろいろな障がいがある人たちと出会い、視野が広がりました。自分に自信を持つことができたのはスキーのおかげだと思っています」
平昌大会の後は体調が優れない時期もあり、モチベーションを保つことに苦労してきたという。
「それでもトレーニングを続けてこられたのは、世界で戦いたいという気持ちがあったからです。この1年間は、北京大会に悔いなく臨めるように、強い気持ちを持って自分を追い込んできました」
パラリンピックでメダルを獲得した経験はまだない。北京大会でクロスカントリースキーとバイアスロンでの初のメダル獲得をめざす。
身近にある目標に向かって
力を出し切れば結果は必ず出るはず
|
2015年からAURORAの下部組織ジュニアスキークラブに所属している川除大輝。大学のスキー部でもトレーニングに励み、北京大会への切符を手にした。パラリンピックへの出場は、平昌大会に続いて2回目となる。
いとこの誘いでスキーを始めたのは6歳の時。両腕の機能に障がいがあり、ストックを使わないクラスでクロスカントリーに打ち込んできた。2019年の世界選手権のクロスカントリー・ロング・クラシカルで初の優勝。「まさか自分が優勝できるとは思わなかった」と振り返るが、その経験が大きな自信とモチベーションにつながった。2021年12月の全日本障害者クロスカントリースキー競技大会での5キロクラシカルでも優勝を果たしている。平昌大会以後の4年間、苦しいトレーニングを続けることができたのは、先輩である新田に追いつき追い越したいという目標があるからだ。
「自分が持っている力をすべて出すことができれば、結果は必ずついてくると思っています。北京大会では力まずに試合に臨んで、メダルを獲得したいですね」
車いす陸上競技部
それぞれのゴールをめざして走り続ける
力を出し切った東京2020大会
若い選手の育成にも携わっていきたいですね
|
久保恒造が右手首の靱帯断裂の大けがを負ったのは、東京2020大会出場をめざしていた2019年2月のことだった。夏季大会の挑戦は前大会に続き2回目。冬季大会を合わせれば4回目の挑戦だった。
「3カ月ほどトレーニングができなくなったのですが、その間にフォームやトレーニングの内容を見直しました。コロナ禍で大会が1年延期になって、その分、技術的に試行錯誤する期間が取れたこともあってパラリンピック選考には以前より進化したフォームを身につけて臨むことができました」
2021年6月に東京2020大会の出場が決まり、「言葉にできない喜びを感じた」と久保は振り返る。
「一度は諦めかけた出場だったので、本当にうれしかったですね。今の自分のすべてを出し切ろうと思いました」
5000m予選に出場し、結果は13位。満足のいく結果ではなかったが、やり切った充実感はあると話す。
高校時代は野球部で活躍した。3年生の時に交通事故で脊椎を損傷し、車いす生活となった。卒業後車いすマラソンに取り組んでいたが、2007年、当時のAURORAの荒井秀樹監督と出会い、スキー競技を始めた。10年のバンクーバーパラリンピック大会で6位入賞。14年のソチパラリンピック大会では銅メダルを獲得した。その後、再び車いす陸上に転向し、夏季パラリンピックへの連続出場を果たした。
日々のトレーニングには1人で取り組むことが多い。モチベーションを保つことは簡単ではないが、一日一日を乗り越えた達成感を大切にすることで、気持ちをつないでいる。重視しているのは、「いい時も悪い時も反省すること」だ。
「結果が悪い時に反省するのは当然ですが、大会に優勝した時でも必ず反省するようにしています。反省すると、駄目なところがいくつも見えてきます。その反省点を改善することが、次の日からの目標になります」
今年41歳。健常者の陸上選手であれば引退を考える年齢だが、パラ陸上選手は、車いす操作の技術などを磨くことで、ここからまだまだ伸びることが可能だ。新田が「ずばぬけた身体能力」と言うフィジカルの力と、経験によって鍛えられた技術力。その2つの力を持って、これからも走り続ける。
大切なのは「迷わないこと」
大きな舞台に立つことが今の一番の目標です
|
馬場達也が車いす陸上を始めたのは、久保との出会いがきっかけだった。地元は北海道。14歳からアイススレッジホッケーなどのパラスポーツで活躍した。その後クロスカントリースキーを始め、2015年の旭川ワールドカップに出場。同じく大会に出場していた久保から車いす陸上の面白さを聞き、新たな競技への挑戦を決意した。
日立ソリューションズに入社後は、人事総務本部労政部に所属し、午前中は勤務、午後はトレーニングという生活を送っている。
「トレーニングの時間が確保できるのが何よりうれしいですね。職場の皆さんのサポートもとても心強いです。大会によっては大勢の社員の方が現地まで応援に来てくれるのも驚きでした。この会社に入社して本当によかったと思っています」
100m競技で東京2020大会への出場をめざしたが、タイムが思うように伸びず、出場はかなわなかった。
「久保さんからアドバイスをもらったり、他の選手の動画を見たりしながら走るイメージをつくってきたのですが、それを完全に自分の体で表現することはまだできていません。パラ選手は障がいの度合いが一人ひとり異なるので、自分の特性に合ったスタイルを見つけなければならないんです。自分の走りを確立することがこれからの課題ですね」
心がけているのは「迷わないこと」だ。今自分がやっていることを信じて、真っすぐな気持ちを持つことができれば、100%の力を発揮できると馬場は言う。
陸上を始めて今年で7年になるが、やめようと思ったことは一度もない。やらなければならないことが山のようにあるからだ。それに日々取り組むことが自分の成長につながる。そんな確信を持って毎日トレーニングを続けている。
これまでの100mベストタイムは17秒29。これを16秒台まで持っていくのが現在の目標だ。そうすれば日本代表メンバーになることも夢ではなくなる。
「代表に選ばれて活躍することで、これまでサポートしてくれた皆さんに恩返しをしたい。それが今の一番のモチベーションです」
Team AURORA
2004年11月設立。当初はスキー部のみだったが、14年に車いす陸上競技部も発足した。これまで計9人の選手が所属。現在は5人の選手が現役で活動している。チーム名の「AURORA」はイタリア語で「夜明け」を意味する。
※QRコードをクリックしても入ることができます。