◎所在地:愛知県名古屋市中区本丸 ◎主な築城:慶長15年(1610年)徳川家康 徳川義直
大坂包囲網の拠点となった
天下普請の軍事要塞
名古屋城と金の鯱
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黄金の鯱(しゃちほこ)が輝く名古屋城は、金鯱城(きんこじょう)の別名をもつ。日本三大名城のひとつとされるが、何を基準にするかで3つの城の顔ぶれが異なる。城郭の規模では名古屋城、姫路城、大坂城、築城名人の加藤清正、藤堂高虎が手がけた城では名古屋城、大坂城、熊本城とされるが、名古屋城はどちらにも選ばれている。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭にも詠われているように、名古屋城は昔から別格の城だったといえるだろう。
明治時代には名古屋離宮として使用されたことから保存状態がよく、国宝に指定されていたが、1945年の空襲で天守をはじめ、多くの建物を失った。現在の大天守と小天守は1959年に再建されたものである。3つの隅櫓(すみやぐら)など当時の姿を留める建造物の幾つかは辛くも戦禍を逃れ、国の重要文化財に指定されている。2009年には本丸御殿の復元工事がはじまり、2018年には完成する予定だ。本丸も戦争で消失したが、襖絵(ふすまえ)や杉戸絵(すぎとえ)、天井板絵などは疎開していたため、当時のものが残されている。
左から東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓、本丸御殿襖絵
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名古屋城は江戸幕府の御三家筆頭、尾張徳川家の居城である。戦国時代に駿河の今川氏が築城したのがはじまりで、当時は那古野(なごや)城と呼ばれていた。これを織田信秀が奪取、その嫡男である信長はこの城で育った。信長が清州城に本拠を移したため廃城となっていたが、徳川家康が九男、義直(よしなお)の居城として天下普請(てんかぶしん)※による築城を命じたのである。名古屋城は尾張徳川家の城である前に、大坂城の豊臣家を封じ込めるための軍事基地であった。大坂を包囲するために家康は各地に城を築いてきたが、名古屋城はその総仕上げともいうべき最重要拠点なのだ。ビジネス書にもよく登場する家康だが、なぜ彼がビジネスパーソンの間で注目度が高いのか。その理由の一端が名古屋城に隠されている。
※天下普請:江戸幕府が各国の大名に命じて行わせた土木事業。費用、資材、人材のすべてを諸大名が負担する。
徳川の強化と豊臣の弱体化を促進する
プロジェクト
名古屋城の工事を開始したのは慶長15年(1610年)。築城は天下普請によって行われ、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興(ただおき)といった西国の豊臣恩顧の大名が駆り出されている。この時期の天下普請は名古屋城だけではない。慶長14年(1609年)には丹波の篠山(ささやま)城の天下普請がはじまり、そこでは藤堂高虎、池田輝政、福島正則、加藤嘉明(よしあき)、浅野幸長(よしなが)などの西国大名が参加している。
名古屋城の天下普請には築城以外にも目的がふたつあった。ひとつは西国大名の財政を圧迫させることだ。築城の労務を大名たちに負わせることで、余剰な資金を吐き出させるのである。ふたつめは徳川に対する謀反を封じることにある。大名たちみずからに壮大で堅牢な城を造らせることで「徳川と戦っても勝ち目がない」と身をもって体感させるのである。
こんな逸話が残されている。築城の作業のさなか、福島正則が池田輝政に「家康公の城ならまだしも、なぜ、息子の義直の城の手伝いをやらなくてはならないのか」と不平をもらした。それを聞いた加藤清正は「不満があるのなら、すぐ国に帰って徳川を討つ戦の用意をすればいい」と正則の発言を戒めたという。
左:豊臣秀忠像(養源院 所蔵)、中庸・
右:方広寺「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘 |
家康にとって、名古屋城は徳川の権力を盤石にするための施策のひとつであった。関ヶ原の合戦以降、家康は大名たちに大坂を包囲する城を築かせる一方、豊臣秀頼には盛んに寺社の寄進をすすめている。これは豊臣家の膨大な資産を枯渇させるための施策であった。豊臣家滅亡を招いたとされる大坂の陣が起こるきっかけとなった方広寺もそのひとつだ。秀頼が奉納した大仏殿の鐘に刻まれた文字に「国家安康」「君臣豊楽」の句があり、これが家康の「家」と「康」を分断し、さらに豊臣を君主としていると非難したのである。これが慶長19年(1614年)のこと。ちょうど名古屋城の主要部分が完成した時期と重なっているのは偶然ではない。
秀吉なきあとの家康の行動は、ビジネスの視点から見ると、長期経営計画のロードマップに基づくかのような用意周到さがうかがえる。信長、秀吉、家康の3人の天下人を、それぞれ「起業家」「事業家」「経営者」にたとえる見方がある。世の中にさまざまなイノベーションをもたらした信長は「起業家」、信長の遺産を受け継いで発展させた秀吉は「事業家」、そして安定した幕藩体制を築いた家康は「経営者」というわけである。
経営学の「ラーニング学派」の説では、変化の早い経営環境下では、現場に近い実践から生まれた戦略が有効とされる。家康が用いてきた戦略はまさにそうしたタイプで、武田信玄と対峙することで軍事の機微を知り、秀吉との攻防のなかで知略の効能を思い知る。こうした学びの積み重ねが、家康の「経営者」としての能力を高めていったといえる。
「戦う城」としての
ケイパビリティの高さを追求
左:加藤清正公(本妙寺所蔵 熊本県立博物館撮影)
右:藤堂高虎像(伊賀文化産業協会 提供) |
名古屋城はなにしろ大きい。高さは約55.6mで当時の江戸城、大坂城にひけをとらない巨大な城郭である。外観を見るだけで、この城を攻略するのは不可能と思わせる威圧感がある。築城には二大名人である加藤清正と藤堂高虎の技術が活かされている。約20mの高さを誇る天守台の石垣は加藤清正がみずから陣頭指揮をとって築きあげたものだ。
名古屋城の石垣
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熊本城と同様に、武者返し(むしゃがえし)の曲線を描いた石垣は、登ろうとする兵の気力を削ぐかのような峻厳(しゅんげん)さだ。堀の幅も約70mあり、容易に石垣に近づくことはできない。
高虎は天下普請に直接は参加していないが、名古屋城の縄張は典型的な高虎のスタイルを踏襲している。全体が直線的で、曲輪(くるわ)も長方形で設計されている。これはスペース効率と施工のしやすさを追求したもので、「見せる城」としてのビジュアルインパクトを重要視した織田信長や豊臣秀吉の織豊城郭とは一線を画す。構造がシンプルな分、城壁と出入口の防備を強化することで防御力を高めているのが特徴だ。
名古屋城昭和初期復元模型
(城郭模型製作工房 島 充・作) |
名古屋城は防御力だけの城ではない。攻撃力こそがこの城の真骨頂だ。本丸は大天守、東北隅櫓、東南隅櫓、西南隅櫓がつながっている。それぞれに馬出しがあり、有事の際はすぐさま四方八方から出陣できるようになっている。さらに当時の設計図をみると、大天守の西側にも小天守をつくろうとしていた形跡がある。そこから西北の御深井丸(おふけまる)につながる通路を設け、出陣できるようにする構想だ。この計画は大坂の陣で豊臣家が滅んだため必要がなくなり中止となったが、大坂攻略に向けた家康の強い執念がうかがえる。本丸の北側には大規模な塩蔵構(しおぐらがまえ)があり、武器弾薬などの貯蔵庫、食料庫があった。籠城戦にも万全の準備を整えていたことがわかる。
ビジネスでは大企業病に陥る企業が少なくない。組織が大きくなると動きが鈍り、変化への対応が遅れ、弱体化する。名古屋城は巨大な城郭であるが、きわめて高いアジリティ(俊敏性)を備えている。大天守だけに司令塔の機能を集中するのではなく、四方に設けた隅櫓から出陣できるようにするなど、現場の戦況の変化にあわせて臨機応変に動けるように設計されている。組織論の観点からも興味深い示唆を与えてくれる。
事業承継モデルとして精度の高い
「徳川御三家」
成瀬正成(白林寺 所蔵)
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名古屋城は徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の城である。城主となる家康の九男、義直(よしなお)は工事を開始した慶長15年(1610年)、まだ10歳にすぎなかった。これを補佐したのが尾張家付家老、犬山城主の成瀬正成(第8回参照 リンク先)である。正成は大名の資質を備えた優秀な武将だが、家康に頼まれて義直の後見人となることを了解したと伝えられている。
武家にとって後継者問題は極めて重要だ。家康の「経営者」たるところは、徳川家という「ファミリー企業」の存続をシステムとして確立したところにある。徳川家を存続させるためのリスクヘッジとして御三家を創設、本家の後継者がいなくなった場合は、この御三家から将軍を選ぶシステムとしたのだ。御三家のほうも将軍になる可能性があるとなれば、幼少から帝王学を身につけ、いつ呼ばれても将軍職を務められる素養がなくてはならない。八代将軍、徳川吉宗が紀伊徳川家から江戸に入り、将軍家の断絶を救ったように、このシステムは徳川の長期政権の礎となった。
豊臣秀吉は有能な補佐役だった弟の秀長を病気で失い、甥の秀次を自害させ、後継者は唯一の子である秀頼しか残されていなかった。この後継者不足が豊臣政権の最大の弱点であり、家康はここを突いて豊臣家を滅亡に追いやった。後継者の重要性を身をもって知っていたのが家康なのだ。
徳川家康像 (堺市博物館 蔵)
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義直は長じて謹厳な城主となり、学問と武芸を大いに奨励し、名古屋の発展の基礎を築いた。三代将軍の家光が急病になったときは、義直が大軍を率いて江戸に向かったという。これは政情の混乱を未然に防ぐためで、もし将軍に何かあっても代わりがいることを、みずからの行動で示すことで、徳川政権の盤石ぶりを世に知らしめたのである。義直が将軍になることはなかったが、徳川の権威を支えるうえで大いに貢献したといえる。
「経営者のもっとも重要な仕事は、後継者を育てること」と、名古屋城の歴史を紐解くことでわかってくる。事業承継に欠かせない人材育成においても、徳川家康は慧眼をもっていたといえるだろう。