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宍道湖を眼下に眺める湖城

松江城

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宍道湖を眼下に望む松江城は、2015年7月に国宝に指定されたばかりである。城を築いた堀尾吉晴は、信長、秀吉、家康の3人の天下人に仕えた名将であり、松江城にはそうした吉晴の経験が活かされている。ネゴシエーターとして活躍した吉晴が城に託した戦略に迫る。

◎所在地:島根県松江市殿町
◎主な築城:慶長12年(1607年)堀尾吉晴・忠氏

豊臣大坂城の様式を今に伝える
貴重な現存天守

松江城の画像
松江城
松江城から見た宍道湖の画像
松江城から見た宍道湖

2015年7月、国宝に指定された松江城は、別名千鳥城とも呼ばれる。宍道湖(しんじこ)を望むこの城は、近江の膳所城、信濃の高島城とともに日本三大湖城のひとつとされるが、天守が現存するのは松江城だけである。4層5階地下1階の天守は、現存天守では姫路城、松本城に次ぐ高さであり、入母屋造の屋根の上に入母屋造の出窓を直交させた様式は、かつての豊臣大坂城の流れをくむ貴重な城だ。

築城を手がけたのは堀尾吉晴・忠氏の親子である。吉晴は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人に仕え、豊臣政権では三中老のひとりであった。三中老とは家康をはじめとする五大老と石田三成らの五奉行をとりもつ役割だ。
松江に来る前の吉晴は家康の旧領、浜松城12万石の城主で、家督を子の忠氏に譲り、すでに隠居している。秀吉の死後は家康に仕え、越前府中城5万石の城主になっていた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦では徳川の東軍につく。吉晴は石田三成が放った刺客による負傷のため参戦できなかったが、忠氏が武功をあげ、堀尾親子に出雲・隠岐24万石が与えられた。

堀尾吉晴像(春光院蔵/松江歴史館提供)の画像
堀尾吉晴像
(春光院蔵/松江歴史館提供)

堀尾吉晴は優れた功績をあげた武将でありながら、知名度はあまり高くない。堀尾家が三代で断絶してしまったという事情もあるが、本人が自らの手柄を語るのを好まなかったせいもある。わが子にすら戦歴を語ることをしなかったという逸話が残されている。
小説や映画、ドラマなどに登場することも少なかったが、2015年に発表された中村彰彦氏の小説『戦国はるかなれど』 は堀尾吉晴が主人公である。そこで描かれている吉晴は勇猛な武将であるとともに、交渉役として活躍するタフ・ネゴシエーターだ。企業再編やM&Aなどで交渉力がますます重要視される現代のビジネスおいて、興味深い示唆を与えてくれる武将といえる。

リタイヤ後も卓越したスキルを発揮した
堀尾吉晴

堀尾吉晴は尾張の豪士からの叩き上げである。通称を茂助といい、温厚な性格から「仏の茂助」といわれたが、いざ合戦となると獅子奮迅の働きを見せた。その戦いぶりをみた秀吉が「仏の茂助は鬼の茂助というべし」と讃えたという。さらに彼の評価を高めたのが、交渉役としての能力の確かさだ。秀吉が行った三大包囲戦として知られる、播州三木城、鳥取城、備中高松城のすべてに参戦し、城の明け渡しの交渉や城主の切腹に際する検使役などを務めた。毛利攻めのときは、毛利に対する交渉を幾度となく行っている。小牧・長久手の戦いでは、秀吉の使者として徳川家康と講和を結び、なおかつ家康の次男である義伊(のちの結城秀康)を養子として迎える任務を担った。秀吉の死後も不仲の家康と石田三成、政権運営で確執のあった家康と前田家の仲裁にも重要な役割を果たした。困難な交渉事を収めるネゴシエーターとして、実にさまざまな局面で起用された。特別な奇策を用いるのではなく、相手の心情を尊重し、誠実に粘り強く交渉にあたるのが吉晴の交渉術といえる。その偽りのない真摯な人柄が心を動かすのである。

月山城図 (安来市教育委員会 提供)の画像
月山城図 (安来市教育委員会 提供)

はじめに太守として領地である出雲の国に入ったとき、堀尾吉晴と忠氏の親子は、かつての尼子氏の居城、月山富田城(がっさんとだじょう)を本拠とした。だが、この城は山城であり、防御だけでなく政治経済の中枢機能も必要とされる近世城郭としては時代遅れだった。堀尾吉晴と忠氏の親子は別の場所に城を築くことを計画する。そこで選ばれたのが現在の松江城がある亀田山だった。だが忠氏が28歳の若さで急死してしまう。まだ6歳だった孫の忠晴を二代目とし、吉晴は後見として藩を支え、みずから築城の指揮をとる。ときに慶長9年(1604年)、吉晴はすでに60歳を越えていた。

落とした城は24城、住んだ城は8城。吉晴は城の長所と短所を熟知した武将であった。秀吉配下の武将の多くがそうであったように、吉晴もまた数多くの城の普請に関わってきた。だが城下町の設計も含めて、まったく白紙の状態から自分の城を築くことは初めてだった。新たな城の構想を練るとき吉晴の頭に浮かんだのは、湖の水運を活かした城だ。これまで吉晴が城主となった城は、佐和山城や浜松城など湖に近い城が多い。その経験を活かして、軍事面だけでなく将来の城下町の発展まで見据えたプランを描いたのである。

石垣(松江市観光協会 提供)の画像
石垣(松江市観光協会 提供)

縄張に起用したのは『信長記』『太閤記』の作者として知られる儒学者・軍学者・医師の小瀬甫庵(おぜほあん)である。風水にも通じていた甫庵は、城の立地を仔細に分析し、吉晴の知恵袋として大いに貢献したという。石垣の築造にあたっては、浜松城の改修でも起用した石垣のエキスパートである近江の穴太(あのう)衆を呼び寄せる。また神話の故郷である出雲は神社が多く、築城には幾つかの移転の交渉が必要だったが、これも吉晴が円滑に済ませたという。 世継ぎを失った失意のどん底から立ち直り、優れたプロデュース能力を発揮し、スムーズに築城を進めていく。こうした苦境を克服するメンタリティの強さは、ネゴシエーターとして困難な交渉事に粘り強く取り組んできた吉晴ならではといえる。ビジネスの世界では第一線を退きながら、問題が起こると現場に復帰し、陣頭指揮を振るうカリスマ経営者が少なくない。吉晴はそうした才覚と実行力をもった人であった。

過酷な城攻め経験が活かされた
鉄壁のディフェンス

付櫓(松江市観光協会 提供)の画像
付櫓(松江市観光協会 提供)

徹底した兵糧攻めを行った三木城、鳥取城の戦い、水攻めで城を孤立させた備中高松城の戦いをはじめ、数々の城攻めを経験した堀尾吉晴だけに、松江城は籠城戦でのサバイバルを強く意識したつくりになっている。まず目につくのが天守の入口にある付櫓(つけやぐら)と呼ばれる部分だ。重厚な鋼鉄の大扉があり、敵の攻撃にびくともしない堅牢さを誇る。万一、すり抜けたとしても正面には鉄砲狭間(さま)があり、侵入したとたん狙い撃ちにされる。しかも付櫓の2階は床を外すことができ、頭上からも槍や鉄砲で攻撃される。付櫓と天守をつなぐ入口の扉は3尺(約1m)ほどの厚さがあり、天守に侵入することはほぼ不可能だ。

天守の地下には井戸があり、長期の籠城戦に備えている。天守内に井戸がある城は、他には名古屋城と浜松城だけとされている。浜松城は以前の吉晴の居城であることを考えると、天守に井戸をつくるのは吉晴の築城の鉄則だったのかもしれない。地下は食糧の貯蔵庫であり、二の丸につながる米蔵から密かに米を運ぶこともできたという。兵糧攻めの恐ろしさを目の当たりにした吉晴流のリスクヘッジである。地下の階段はスライド式の板で塞げるなど、細かなところにも神経の行き届いた設計になっている。

天守の3階には東西南北の全方向に計8個の石落としがあり、石垣を登ろうとする敵をことごとく撃退できる。4階の千鳥破風の間は武士たちが待機する場所で、鉄砲狭間が94カ所に設置されるなど、戦闘能力は極めて高い。さらに注目すべきはその構造だ。寄木柱(よせぎばしら)と呼ばれる複数の木を束ねた太く長い柱を多用している。出雲大社を擁するこの地方独特の工法で、吉晴は大社建築の技を継承する宮大工の協力を得て、この寄木柱を根幹とし、城の堅牢性を高めたのである。

天守と二の丸が完成したのは慶長16年(1611年)だが、惜しくも吉晴はその直前で世を去る。享年68であった。この城が合戦の舞台となることはなかったが、籠城戦に備えた周到なつくりは、すみずみまで実戦的であり、松江城は当時の武将たちから高い評価を得る。長年キャリアを積み重ねてきた老将の格の違いを世に見せつけたのである。

左から:井戸、鉄砲狭間、石落とし(松江市観光協会 提供)の画像
左から:井戸、鉄砲狭間、石落とし
(松江市観光協会 提供)

現代に受け継がれる
堀尾吉晴のグランドデザイン

松平直政像 (松江歴史館 提供)の画像
松平直政像
(松江歴史館 提供)

堀尾家は孫の忠晴に世継ぎがなく三代で断絶となる。その後、京極忠高(きょうごくただたか)が城主となるが、これも一代で断絶となる。寛永15年(1638年)、信州松本藩主の松平直政が藩主となり、以後は明治維新まで松平氏によって治められる。
直政は家康の次男、結城秀康の三男で家康の孫にあたる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では14歳の若さで出陣、見事な戦いぶりを見せ、敵将の真田幸村(信繁)から鉄扇を贈られる。その鉄扇は現在、松江城内に展示されている。

堀尾吉晴像の画像
堀尾吉晴像

出雲・隠岐の藩主は初代が子の堀尾忠氏であり、二代目は孫の忠晴である。吉晴が藩主だったことはない。だが、松江城の前には吉晴の銅像があり、春には吉晴を主役にした松江武者行列も行われている。松江の人々にとっては、吉晴こそが開府の祖なのである。
水の都といわれる松江の基礎をつくったのも吉晴だ。松江城は内堀と外堀のほぼすべてが残る稀有な城郭であり、堀には今も水が流れ、船で松江の城下町をめぐることができる。『怪談』などの著作で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も愛した街並みは昔ながらの風情があり美しい。

左から:小泉八雲像(小泉八雲記念館 提供)、堀川遊覧船(松江市観光協会 提供)の画像
左から:小泉八雲像(小泉八雲記念館 提供)、
堀川遊覧船(松江市観光協会 提供)

温厚な人柄が愛され、無用な争いを好まず、困った人には手をさしのべ、交渉によって物事を解決する努力を惜しまなかった堀尾吉晴。「天下に動きなく世上静謐に及びしは、ひとり堀尾帯刀先生(たちわきせんじょう)の功によるものと存ずる(世の中が平穏なのは堀尾吉晴のおかげ)」と徳川家康に言わしめた吉晴の功績は、今も脈々と受け継がれている。

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