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唯一現存する漆黒の五重天守

松本城

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徳川を出奔し、豊臣についた石川数正がいかなる意図で城を築いたのか。徳川と豊臣の熾烈な争いをくぐり抜けてきた松本城に、プロフェッショナルな仕事の軌跡をみる。

◎所在地:長野県松本市丸の内 ◎主な築城:天正18年(1590年)~文禄3年(1594年)石川数正・康長

ライバル陣営からの転身組、
石川数正が築城

松本城(松本城管理事務局提供)
松本城(松本城管理事務局提供)

日本最古の5層6階の天守閣をもつ国宝、松本城。漆黒の外壁に包まれていることから別名を烏城と呼ぶ人もいるが、松本城管理事務所の見解ではそうした歴史的な文献はなく、別名はあくまでも前身の「深志城(ふかしじょう)」だという。

松本城のルーツは信濃の守護、小笠原氏が16世紀前半に築いた深志城である。16世紀中頃には武田氏の支配下となるが、武田氏の滅亡後に激しい領土争いが繰り広げられる。結果としてこの地は徳川のものとなり、配下の小笠原貞慶が城主となる。天正18年(1590年)の小田原征伐によって徳川は関東に移封、小笠原氏も下総の古河に移ることになった。豊臣秀吉の命によって、かわりに城主となったのが石川数正である。この石川数正と嫡男の康長が現在の松本城を築いた。

石川数正は、もとは徳川の宿老だったが、天正13年(1585年)に徳川が真田氏を攻めた第一次上田合戦の直後、数正は一族を率いて徳川を出奔、豊臣の家臣となった。なぜ出奔したかは諸説あり、家康の勢いを削ぐための秀吉のヘッドハンティングという見方もあるが、真の理由は定かではない。
現代のビジネスに置き換えると、石川数正はライバル企業からの転身組。それもトップの側近を務めた大物である。それだけに周囲が寄せる期待は大きい。松本城を築くというプロジェクトは、みずからのマネジメント能力をアピールする絶好の機会であった。見事な城を築くことが秀吉に対する忠義の証明となる。逆に失敗すれば改易や御家取り潰しといったリストラにあう。数正・康長親子が築城に全力を傾けたことは言うまでもない。

秀吉の城としてのビジュアルを意識

秀吉は関東の統治を家康にまかせながらも、家康の勢力拡大を恐れ、江戸を封じるネットワークを築いた。いわゆる「徳川包囲網」である。のちに家康は秀吉の没後に「大坂包囲網」を構築するが、その前例ともいえる。京都と江戸を内陸で結ぶ中山道(なかせんどう)の要衝である松本城も重要な役割を担っていた。

松本城出土の金箔瓦(松本市立博物館蔵)
松本城出土の金箔瓦(松本市立博物館蔵)

徳川包囲網として、秀吉は松本城のほか、沼田城、上田城、小諸城、諏訪高島城、甲府城などに配下の武将を配置した。これらの城にはすべて「金箔瓦」が飾られたといわれる。金箔瓦とは当時の瓦の最高ランクに位置するもので、信長は自分の城にしか使うことを許さなかった。だが秀吉は自分の家臣たちにも使用を許可し、金箔瓦を各地に拡散させることで豊臣統治のシンボル、ビジュアル・アイデンティティとして活用した。徳川の者たちは各地の金箔瓦をあしらった城を見るたびに、秀吉の圧力を感じたに違いない。
こうしたやり方は、昨今の経営テーマとして話題になるデザインシンキングと通底するものがある。さまざまな分野でイノベーションを起こした秀吉であるが、デザインを戦略的に活用した点においても先駆者だったといえるだろう。ちなみに松本城では城内の土中から当時の金箔瓦が発見されている。

入母屋破風(いりもやはふ)(松本城管理事務局提供)
入母屋破風(いりもやはふ)(松本城管理事務局提供)

松本城の大天守は華美な装飾を抑えながらも、伝統様式に基づく気品と格調が追求されている。たとえば、入母屋破風(いりもやはふ)の妻飾(つまかざり)は、書院造に使用される木連格子だ。城にはあまり使われない様式だが、美観を高めるためにあえて採用されている。このあたりの趣味は石川数正・康長親子のものだろう。
外壁は秀吉の居城である大坂城と同様に黒漆である。黒は金箔が映えることから秀吉が好んで使用した色だ。いわば金と並ぶ豊臣グループのコーポレートカラーである。徳川包囲網の城のひとつであることを色でも強調したのだ。

後世、家康は姫路城をはじめ、白を強調した城を多く築く。これは秀吉政権との差別化を明確にするためのビジュアル戦略ともいえる。黒の豊臣と白の徳川。まさに碁石のような戦いの構図があったのである。

鉄砲に強い城という
クリティカルシンキング

松本城は現存12天守の中で唯一の平城(ひらじろ)である。平城は交通の便がよいというベネフィットがあるものの、急峻な地形を利用して敵を撃退できる山城(やまじろ)に比べて起伏がないため敵に攻め込まれやすく、防御に工夫が必要とされる。いかに弱点をカバーして堅固な城郭とするか。松本城におけるその対応策は実に理にかなったものであった。現代のビジネスから見ると、クリティカルシンキングの教材ともなりうる好例で、築城主のマネジメント能力の高さがうかがわれる。

「信州松本城之図」(起し絵付)(松本城管理事務局提供)
「信州松本城之図」(起し絵付)
(松本城管理事務局提供)

松本城の設計の根幹をなすのは「鉄砲に強い城」である。石川数正が築城に着手した1590年頃は鉄砲隊を中心とした戦いの巧拙が勝敗を決する時代であり、城には相手を城内に入れないことはもちろん、銃撃戦を想定した構造や仕掛けが求められる。
まず城内を三重の水堀で囲む。内堀の幅は約60mだが、これには理由がある。当時の火縄銃が相手に命中する距離の限界は約60mであり、城内から内堀の対岸にいる敵を迎撃できる。敵が内堀の前で立ち往生している間に壊滅させるのが狙いだ。
水堀は3mの深さがあり、しかも城側の斜面が急になっている片薬研堀(かたやげんぼり)の構造のため対岸に渡るのは極めてむずかしい。

鉄砲狭間(さま)(松本城管理事務局提供)
鉄砲狭間(さま)(松本城管理事務局提供)

万一、敵が銃弾をかわし、内堀を渡りきったとしても、前に進むのは至難の技だ。敵を攻撃する鉄砲狭間(さま)や矢狭間が至るところに設けられている。狭間は大天守に115箇所、城内全体では2,000箇所以上ある。狭間は低いところにあり、鉄砲を安定した「ひざうち」の姿勢で撃つのに適した高さになっている。大天守には石垣を登ってくる敵を石や熱湯で撃退するための石落としも11箇所ある。
外壁には窓が少ないうえ、武者窓と呼ばれる竪格子を閉じると壁になる仕様だ。大天守1階と2階の壁は約29cmと厚く、内部には木の枝を頑丈な縄で絡めた部材が練りこまれ、鉄砲の玉が当たっても貫通しにくい造りになっている。

天守の壁と石落とし(松本城管理事務局提供)
天守の壁と石落とし(松本城管理事務局提供)

このように細部にわたって戦に備えた配慮があり、城内に隙を感じさせない。結果として松本城が戦の舞台になることはなかったが、もし戦闘が行われたとしても、高いパフォーマンスを発揮したに違いない。

完成度の高いデザインが後世まで生きる

月見櫓(松本城管理事務局提供)
月見櫓(松本城管理事務局提供)

松本城がユニークなのは、石川数正・康長のあとに行われた増築にある。
康長が徳川家康によって改易されたのち、松本城主は小笠原氏、戸田氏と入れ替わっていく。そして時は寛永10年(1633年)、徳川家康の孫、松平直政が城主となる。ここで城の増築が行われた。三代将軍、徳川家光が善光寺参詣の道すがら松本城に立ち寄ることになり、家光をもてなすため新たに月見櫓(つきみやぐら)と辰巳附櫓(たつみつけやぐら)が建造される。結局、家光が松本城に来ることはなかったが、2つの櫓は残った。

天守閣(松本城管理事務局提供)
天守閣(松本城管理事務局提供)

石川氏が築いた大天守・渡櫓(わたりやぐら)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)に、直政の築いた2つの櫓が加わり、ここに現存の連結複合式天守が完成する。この5棟すべてが国宝である。
大天守のデザインの完成度が高いゆえに、あとから櫓を加えても違和感がなかったのだ。もし、大天守の評価が低ければ、増築を機に松本城は別の姿になっていたかもしれない。

松本城は戦乱期と泰平期との共存であり、また豊臣スタイルと徳川スタイルとの融合でもある。石川氏は改易となってしまったが、秀吉に認められ、みずからの名声を高める城をめざしたプロジェクトは大きな実を結んだといえる。いい仕事がなされたものは後世まで評価されることを、松本城は時の重みとともに伝えてくれる。

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