◎所在地:兵庫県姫路市本町 ◎主な築城:天正8年(1580年)羽柴秀吉 慶長6年(1601年)池田輝政
室町時代、すでに城の原型があった
春の姫路城(改修後)
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別名、白鷺城(はくろじょう/しらさぎじょう)の名をもつ国宝、姫路城。現在、国宝に指定されている城は、姫路城をはじめ、松本城、犬山城、彦根城、松江城(2015年指定)の5城のみである。なかでも姫路城は1993年に日本初のユネスコ世界遺産に指定されるなど別格の存在であり、日本を代表する名城として世界に広くその名を知られている。2015年に「平成の修理」を終えて、まばゆいばかりに白く輝くさまは、400年以上も前に築城された当時の清新な美しさをいまに伝える。
いつこの城が築かれたのか。そのルーツは室町時代にさかのぼる。1346年に播磨を所領していた赤松貞範(さだのり)が姫山と呼ばれるこの地に砦を築いたことがはじまりとされる。このあたりは山陽道と山陰道を結ぶ基点で、出雲・因幡・但馬の街道が分岐する交通の要衝であった。のちにこの地には赤松氏の一族、小寺氏の重臣である黒田氏の居城が築かれることになる。
黒田考高像(福岡市博物館蔵)
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世は戦国時代。黒田孝高(よしたか)、すなわち黒田官兵衛(かんべえ)の代に、姫路城は一躍、歴史の表舞台に躍り出る。織田信長の命で中国地方攻略をうかがっていた羽柴秀吉に、黒田官兵衛はこの城を献上。中国地方を攻める拠点として活用することを進言する。秀吉はこの進言を受け入れ、黒田氏の居城を大規模に改修し、長大な石垣と3層の天守をもつ近世城郭に造り替えた。権力を誇示する政治的要素と、防御を固める軍事的要素をあわせもつ、いわば織豊系城郭の典型ともいえる城である。当時の西国ではまだ天守閣をもった城はなく、空高くそびえ立つ堂々たる城の偉容は西国の武将たちを畏怖させたという。
この豊臣の城をガラリと造り変えたのが、現在の姫路城である。徳川の天下となり、ライバルをいかに封じ込めるかという戦略が姫路城には秘められている。その築城のプロセスは激しいシェア争いを繰り広げる現代のビジネスにも通じるところがある。
豊臣から徳川へ。競争力を高める城
現存の姫路城を築いたのは池田輝政(てるまさ)である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍の徳川につき功績をあげた輝政は、52万石の大名として家康より姫路の藩主に命ぜられる。輝政は家康の次女、督姫(とくひめ)をめとった娘婿であり、「西国将軍」「姫路宰相」といわれるほどの権勢を誇った。かくして姫路城は豊臣のものから徳川のものとなり、秀吉の築いた城郭は取り壊され、5層6階の大天守に3棟の小天守をもつ壮大な白亜の城郭が築かれた。
連立式天守閣群
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姫路城は単なる大名の居城ではなく、徳川が豊臣を封じ込める「大坂包囲網」の要所である。大坂包囲網とは豊臣家に恩顧のある西国大名を牽制するためのもので、大坂城に通じるルートに睨みをきかせるものだ。かつて秀吉が家康を封じ込めるために敷いた「徳川包囲網」と似ているが、大坂包囲網は西国大名を牽制するだけでなく、江戸を攻める大名を迎え撃つ城塞の役割をより強化していた。
①壮麗な外観で豊臣恩顧の西国大名を威圧する。②戦に備えて城の防御を徹底する。
姫路城の役割は、この2つに集約される。
現代のビジネスに置き換えると、大坂包囲網はいわば徳川という急成長の最中にある企業の支社ネットワークであり、なかでも姫路城は西日本支社ともいうべき重要な戦略拠点といえる。中国地方という未開拓マーケットにおけるシェアを拡大しつつ、ライバル企業の攻勢を食い止める。そんなミッションを担っていたといえる。池田輝政は有力大名であるが、姫路城のプロジェクトに関しては「創業者オーナー」である家康の意向に忠実に従ったものと思われる。
まず、第一の役割である「西国大名の威圧」についてどのような策を講じたか。新しいターゲットである中国地方を確実に掌握するために、家康と輝政がとった戦略が姫路城というランドマークを活用した徳川ブランドの価値向上である。当時の中国地方を代表する城といえば広島城と岡山城だが、どちらも外観は黒である。姫路城のような連立式天守の堂々たる外観をもち、まばゆいばかりに白く輝く城を人々は見たことがない。さぞかし強烈な印象を覚えたことだろう。もはや徳川に敵対するのは得策ではないということが暗黙のうちに了解されたに違いない。テレビもインターネットもない時代、姫路城という壮麗にして優美な建造物そのものが強力な広告メディアとなり、徳川ブランドの価値向上に多大な効果を発揮したともいえる。
徳川の権力を世に広く知らしめることで抵抗勢力を帰順させる。これは「戦わずして勝つ」を最善とする孫氏の兵法にも通じる戦略でもあった。
慎重に慎重を重ねたセキュリティ対策
次に第二の役割である「城の防御の徹底」に目を向けてみる。現代のビジネスにおいても、防御が重要なテーマであることは論を俟たない。とくにサイバー攻撃に対する防御力を高めることは喫緊の課題である。自社の防御には万全の策を講じているとほとんどの経営陣が考えているが、それでもデータの流出、破壊、システムの機能不全に陥ることがある。
もちろん城の防御を単純にネットワークに置き換えることはできないが、姫路城の何重にも張り巡らされた安全対策は注目に値する。
姫路城の白い外壁は美観のためだけではない。白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の外壁は防火性・耐火性をもつ。これは銃撃による火災を防ぐためで、まさにファイヤーウォールだ。
なにしろ難攻不落の城である。敵兵が天守閣に近づくのは、ほぼ不可能といっていい。城内は7つの門があり、迷宮のような構造になっている。たとえば、敵が正門の「菱の門」から侵入すると正面に「いの門」が見える。敵は当然、正面に向かって突進する。ところが右側の見えないところに門があり警護の城兵が潜んでいる。「いの門」に向かった敵は正面と背後から挟み撃ちに会い、たちまち壊滅される。このような罠が随所に仕掛けられている。さらに通路の両側に築かれた壁には狭間(さま)と呼ばれる穴があり、侵入者は鉄砲と矢で狙い撃ちされる。姫路城にはこうした狭間が2,520箇所あったといわれる。もし運よく正面突破できた場合、その奥には坂道がある。道には葉の表面がツルツルした射干(しゃが)という植物が一面に植えてあり、兵士たちは滑って前に進めない。そこを上から鉄砲で狙われる。
多聞櫓(たもんやぐら)
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それでも侵入してくる敵に対して「にの門」が立ち塞がる。門の先は低く狭いトンネル状で、槍や兜が天井に引っかかり思うように前に進めない。そこを上から槍で攻撃される。最後の関門は「ほの門」だ。重厚な扉は厚い鉄板に覆われている。もし敵が通過した場合は、土砂を崩して行く手を完全封鎖することができる。
井郭櫓の中の井戸
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さらに石垣を登ってくる敵には「石落とし」から石を投下、天守の回りには長大な「多聞櫓(たもんやぐら)」があり、無数の鉄砲や矢が放たれ、侵入者を寄せつけない。
万一、籠城したときの備えも周到だ。多聞櫓の内部には食糧の備蓄と井戸がある。井戸を建物の内部に造ったのは敵に毒を入れられないためだ。さらに連立天守の中庭に「台所櫓」がある。水を石垣の外に捨てると敵に居場所や人数を探られてしまうので、排水口を城の中に設けて中庭に捨てるようにしてある。しかも大天守の地下には便槽まであり、敵に追い詰められたときも大天守に籠り、徹底抗戦できる造りになっている。
城主の高度なガバナンスを現代に伝える
池田輝政像(鳥取県立博物館蔵)
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姫路城の基礎を築いた池田輝政は生き馬の目を抜く戦国の世で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた筋金入りの武将である。加えて築城の名手でもあった。姫路城は「これほど厳重な防御を敷かないと戦国の世では生き残れない」という彼の知見が凝縮された生きた実例ともいえる。
この執拗なまでの用心深さと、攻撃を防ぐための知恵の使い方は、企業のセキュリティや危機管理、事業継続計画を構想するうえで参考に値するものだ。姫路城は「不戦・不焼の城」と呼ばれるように、今日まで戦禍や焼失をまぬがれた稀有な城である。幸運に助けられたところもあるが、やはり万全の防御対策が功を奏したともいえる。たとえば、籠城に備えた台所櫓は一度も使われることがなかったが、不要だからと取り壊されることはなかった。万一に備えて、ずっと存在し続けたのである。
姫路城天守閣群
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輝政は経済にも精通していた。城下町の整備や商人の保護などで経済を発展させた信長、秀吉の手法をよく知っている。
城郭を中心に町全体を濠と土塁で囲む、総曲輪の縄張を企図し、内曲輪に天守を置き、中曲輪には武家屋敷、外曲輪と街道沿いには商人や職人の住居を整然と配置させた。他にも高砂港の開港、加古川の河口の付け替え、塩や藍などの特産品育成も行っている。
こうした業績をみると治世者としても優れた手腕をもっていたことをうかがわせる。池田氏のあと、本多氏、榊原氏、酒井氏など城主がめまぐるしく変わるが、輝政の築いた基礎が後世の城下町の発展に大きく寄与している。
輝政が実際の築城にどこまで口を出したかは知る由もない。だが、多彩な意匠や工夫を凝らした姫路城や往時の活気を想起させる城下町を見るとき、この一大プロジェクトを指揮した者が、いかに卓越した知恵と美意識、そして強力なリーダーシップをもっていたかを教えてくれる。