江戸時代末期に茨城県の土浦で創業し、明治時代に東京・浅草に移ってからも和太鼓づくりを続けてきた宮本卯之助商店。160年以上の歴史を持つその老舗の8代目が宮本芳彦氏だ。英国で国際政治経済学を学んだ後に家業を継いだ宮本氏が考える、日本の未来を見据えたものづくりとは──。
宮本 芳彦
宮本卯之助商店
1975年、東京・浅草生まれ。宮本卯之助商店8代目当主。大学卒業後にイギリスに留学し、国際政治経済学の修士号を取得。帰国後、2001年に宮本卯之助商店に入社する。10年に社長就任。教室事業「HIBIKUS」、アメリカ支社「kaDON」、東京チェンソーズとのプロジェクト「森をつくる太鼓」など、様々な新しい取り組みを続けている。
「心より出でて形に入り、形より出でて心に入る」──。能楽の基礎を築いた世阿弥の言葉だ。〈心〉は〈形〉となることによって多くの人に伝わるが、〈形〉ができた後もそこに〈心〉がなければ、それは空疎なものに終わる。そんな意味がこの言葉には込められている。文久元年(1861年)から和太鼓をつくり続けてきた宮本卯之助商店の8代目・宮本芳彦氏の胸の内には、いつもこの言葉がある。
「伝統のものづくりは、〈形〉を重視するあまり〈心〉を忘れてしまうことがあります。太鼓を使った芸能にはどういう意味があるのか、祭りで太鼓を叩くことにはどういう思いが込められているのか。そういったことを考えなくなると、ものづくりの本質から外れていってしまう。そのことをいつも忘れないようにしたいと思っています」
太鼓の「胴」は、何年もかけて育った木の丸太を削ってつくる。
その大きな胴の先には、サステナブルな太鼓や廃材活用の未来が見える。
大学卒業後、英国の大学院に留学して国際政治経済学を学んだ。一時、家業以外の道もあると考えもしたが、自分がやるべきことはやはり太鼓づくりであると思い直し、宮本卯之助商店の社員となった。営業や総務などの仕事を10年ほど続けたのち、2010年に社長に就任した。
社長になって力を入れるようになったのは「ことづくり」だ。先代も、世界中の打楽器を集めた「太皷館」という博物館を設けるなど、太鼓をつくるだけでなく、その魅力を体験してもらう機会づくりや場づくりに取り組んでいた。宮本氏はさらに、和太鼓教室「HIBIKUS(ヒビカス)」を14年に開講し、海外の太鼓ファンにオンラインレッスンを提供するアメリカ支社「kaDON」を設立するなど、和太鼓文化の裾野を広げる活動に邁進した。祭りや伝統芸能の発展をめざす「いやさかプロジェクト」を立ち上げ、コンサート企画も実現させた。
伝統を守るためには、変わり続けなければならない。それが宮本氏の信念だ。
「昔は厳しいことを言ってくださるお客様がたくさんいて、その要求に応えるために常に最高の水準をめざさなければなりませんでした。しかし、ものづくりの主導権がつくり手に移るようになると、つくり手の目線だけで太鼓をつくるようになってしまい、〈心〉が失われてしまう。そんな可能性があると私は思っています。必要なのは、お客様が何を求めているかを知り、それに応えるためにつくり手側が変わっていくことです」
自分自身は、職人としてものをつくる才能が絶望的に欠落している。だから、自分が言えたことではないのだが──。そう言って宮本氏は笑う。
和太鼓づくりは、丸太を削り「胴」をつくるところから始まる。樹齢百年を超える一本木を仕入れ、場合によっては何十年と寝かせて、「荒胴(あらどう)」と呼ばれる状態まで機械で削り、さらに何年か寝かせる。材料となるのは主にケヤキだが、センやタモなどを使うこともある。
胴の形を整えるのは、鉋(かんな)を使った手作業である。胴全体が均一な曲線を描くよう、熟練の職人の技をもって丁寧に鉋をかけていく。
(左)手作業で胴に鉋を丁寧にかけていく。全体を均一な曲線にするには熟練の技が求められる。
(右)鞣して一度乾燥させた革を紐で引っ張りながら胴に張り、
繰り返し叩いて慣らしていく。この作業が完成後の音色を大きく左右することになる。
その後、ニスや漆を表面に塗り、金具を取りつけ、「革」を鋲や紐で胴に張る。革は牛皮や馬皮を鞣(なめ)して縫ったものを使用する。革を張った後に仕上げの塗装をすれば完成だ。
木の状態や革の厚みなどは1点ごとに微妙に異なる。だから、1つとして同じ太鼓はない。使い込む中で状態が変化していくので、メンテナンスも必要となる。江戸時代につくられた太鼓でも、革を張り替えることで使い続けることが可能になるという。
(左)鋲を一つひとつ叩きながら胴に革を留めていく。紐で固定する場合もある。
(右)革をつけた太鼓にワニスを塗って仕上げる。
より高級な太鼓の仕上げには漆を使う場合もある。これで太鼓は完成となる。
木材という自然の恵みがなければ、和太鼓づくりはできない。しかし、これまで自分たちは森林のことを深く考えてこなかったという反省がある。そう宮本氏は言う。そんな思いからスタートしたのが、「森をつくる太鼓」というプロジェクトだ。
東京・檜原村を拠点とする林業ベンチャー企業「東京チェンソーズ」をパートナーとして「森をつくる太鼓」の活動が始まったのは19年のことだ。森から切り出した間伐材で、東京の職人が太鼓をつくる。その循環をつくることがプロジェクトの目的だ。間伐によって森の木が成長する一方、間伐材から楽器を生み出すことで資源を有効活用できる。太鼓づくりが森を豊かにする取り組みと直結する、すなわち「森をつくる太鼓」というわけだ。
プロジェクトの英語名は「ECHO-LOGICAL TAIKO」である。その由来を、宮本氏はこう説明する。
「檜原村の森林に行って、間伐した後に植林をしている場所を見せていただいたことがありました。その風景がまるで古代ギリシャの劇場のようで、この場所で太鼓を叩いたらとてもいい音がするのではないかと思いました。そこで、実際に森に太鼓を持っていって鳴らしてみたんです。驚きましたね。太鼓の音が木や山の斜面に反響して、まるでこだまが渦を巻いているように響きました。森の木から生まれた太鼓が森に帰ってきて、樹々と音でコミュニケーションをしている。そんな感じでした。この経験を経て、こだまを意味する"ECHO"をエコロジーにかけてプロジェクト名にしました」
宮本卯之助商店が手がけるブランド「The Curve」。
太鼓には使えない木片(下写真)を椅子などのインテリア(上写真)に生まれ変わらせて販売している
そこにはまた、森を豊かにしたいという〈心〉と優れた太鼓を生み出そうとする〈心〉の響き合いもあっただろう。今後は、檜原村の木材を使って太鼓以外の製品をつくることにチャレンジしたい。また、このプロジェクトのモデルを日本各地で展開して、森の育成とものづくりの循環を広げていく活動にも取り組んでみたい。そう宮本氏は言う。
数ある和楽器の中で、和太鼓は比較的気軽に始められる楽器である。歌唱や特別な奏法を身につける必要はなく、誰でも叩くだけで音を出すことができる。もちろん、優れた太鼓奏者となるためには、他の楽器同様に修練を必要とするが、間口の広さが太鼓の魅力であることは確かである。その間口の広さを、人と人のつながりをつくるために活かしていきたいというのが宮本氏の思いだ。前述の和太鼓教室や、海外向けのオンラインレッスンもその取り組みの一環だ。
「以前の日本は、お寺や神社がコミュニティの中心にあって、そこで行われる祭りで太鼓が使われていました。しかし、そういったつながりが薄れている現代には、コミュニティを新たにつくっていく必要があります。太鼓はその中心を担うことができる楽器だと私は思っています」
太鼓を叩くことを楽しめる場をつくり、そこでたくさんの人たちが同じリズムで音を合わせることで〈心〉を通じ合わせる。そんなコミュニティがあちこちにできれば、今よりもっと寛容な社会の基盤ができるかもしれない。
「太鼓はたくさんの人の心を1つにできる。私は太鼓を"共感楽器"と呼んでいます」
社長に就任して13年。これまで様々な新しい事業に取り組んできたが、それらは日本のものづくりの伝統から見れば、「広い湖面に水を数滴たらしたようなもの」だと宮本氏は話す。それでも、〈心〉をつないでいくための小さな努力をこれからも続けていくつもりだ。
関東大震災や東京大空襲といった惨禍を潜り抜けて160年の歴史を紡いできた老舗。その「伝統」を守るための「革新」に、8代目である宮本氏は取り組み続ける。
東京・浅草の宮本卯之助商店の店舗兼工場で取材と撮影を行いました。宮本卯之助商店は、和太鼓のほか、神輿や祭礼具をつくる「祭りの総合メーカー」で、店舗裏の工場では、職人の皆さんがそれぞれの工程に熱心に取り組んでいらっしゃいました。30代で社長に就任し、年上の職人とのコミュニケーションに苦労してきたという宮本さん。〈形〉には〈心〉がなければならず、伝統を守るためには変わり続けなければならないという宮本さんの信念は、職人さんたちにも間違いなく伝わっているはず。そんなふうに感じました。