※本記事は2021年1月に掲載されたものです
現代に合ったものを生み出して伝統をつなぐ
1950年、東京都中野区生まれ。東京デザイナー学院にてグラフィックデザインとイラストレーションを学ぶ。江戸凧づくりを太田勝久氏に師事。1980年代から海外の凧揚げ大会や凧づくりワークショップに参加。千葉・長生村に「凧工房とき」を構える。日本凧の会会員。江戸凧保存会会員。米国凧の会会員。 |
河原や空き地で色とりどりの凧が寒風を受けて大空を舞う光景は、かつて日本の冬の風物詩だった。ビルが立ち並び、空き地が少なくなった都会で凧揚げの風景を見る機会は減ったが、現在も凧揚げの愛好者は全国に数多くいて、手作り凧の伝統も続いている。
凧の歴史は紀元前の中国に遡る。古代の凧は軍事用の道具で、敵地との距離を計測するために主に使われていたという。凧の文化はその後世界中に伝播し、現在でも欧米、アジア、中東と世界中で、時に遊戯として、時にスポーツとして多くの人々を熱中させている。
桃太郎をあしらった角凧。江戸凧の絵柄は物語やおとぎ話などから取られることが多い
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凧が日本に伝わったのは平安時代である。武士の世となって、凧はかつての中国と同様軍事用に使われるようになった。のろしのように遠隔地にいる味方との連絡に使われたとみられる。江戸期に入り世の中が安定した後、凧揚げは武士の家の子どもたちの遊興となり、それが徐々に庶民にも広がっていった。明暦年間(1655~57年)には子どもたちの間で凧揚げの流行が過熱し、幕府から禁止令が出るほどだったという。さらに安永年間(1772~81年)には大人たちも凧に興じるようになり、凧揚げは「旦那の遊び」となった。奴(武家の奉公人)をモデルにした奴凧(やっこだこ)が流行したのもこの頃である。
千葉県・九十九里浜に近い長生村に凧工房を構える土岐幹男氏が凧づくりに初めて魅了されたのは、デザイン学校でグラフィックデザインやイラストを学んでいた1970年代初頭だった。
「ある年配の凧づくり名人と出会いまして、江戸の角凧の魅力を知ったんです。その頃、すでに凧づくりの伝統は廃れてきていました。この技と文化を未来につないでいかなければならないと思いました」
凧には地域によって様々な種類がある。例えば、新潟では六角形の凧、長崎では江戸時代にオランダから伝わった菱形の凧(地元ではハタと呼ばれる)が現在もつくられている。和凧の骨には一般に竹が使われるが、唯一青森では凧づくりにヒバを使う。気温が低く丈夫な竹が育たないからだ。
江戸を代表するのは長方形の「角凧」で、多くは古い説話や伝記、歌舞伎の演目などを絵柄とするが、江戸文字(※)をあしらったものも少なくない。江戸時代の富裕な商人たちは、プロの絵師に絵を描かせ、空に舞う凧の見栄えを競い合ったという。「美術品で遊んでいるようなものです。ぜいたくな遊びですよね」と土岐氏は笑う。
(※)江戸時代に使われていた書体。寄席文字、籠文字、芝居文字などがある
「骨」を見れば凧の良しあしが分かる
暗めの色から明るい色に順に彩色していく。鮮やかな赤は最後の段階で筆を入れる
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土岐氏が凧づくりに引かれたのは、絵を描き、骨を組み、完成させた凧を揚げて、下からの見映えによって絵を調整するというその一連の作業がとても面白かったからだ。
「昔は分業だったんですよ。絵を描くのは絵師だし、版画でつくる場合は、彫師がいて、摺師がいました。その絵を凧職人が凧に仕上げていくわけです。凧は冬場の遊びですから、秋口から暮れにかけてが職人の繁忙期です。それ以外の時期は、うちわやちょうちんをつくって商売としていたようです。際物(きわもの)商いというやつです」
凧に昔ほどの需要がない現代では、分業では商売は成立しない。凧職人は一人ですべての作業を行わなければならない。しかし、子どもの頃から絵を描くのが好きで、長じてデザインを学んだ土岐氏は、絵の題材や構図、色づかいを考え、その絵が実際に空に舞うところまでをすべて自分一人の腕で担えることが楽しいのだという。
左/絵柄の般若の下絵
右/濃い墨で絵の輪郭を描いた後、薄墨でコントラストを加えていく |
和凧に使う素材は、ほぼ和紙と竹と麻糸のみである。作業は、和紙に墨と筆で絵を描くところから始まる。まず濃い墨で絵のアウトラインを描き、2日くらい乾かした後に薄墨でコントラストをつけていく。さらにそこに明るい色から順に彩色していく。絵具には染料と顔料を混ぜたものを使う。
絵の題材となるのは、前述のように古い説話や伝記、歌舞伎の演目などだが、客からの注文によっては、それ以外の題材を描くこともある。凧揚げの醍醐味は、絵を地上から見上げることにあるため、100メートルほどの上空に揚がった時に絵柄がどう見えるかを考えながら絵を描いていかなければならない。
絵が完成したら、次はそこに骨をつけていく作業だ。骨の材料となる竹は、竹の中に虫のいない9月から12月に伐採し、半年から1年ほど乾かし、さらに火で炙って完全に水分を抜く。その竹を角凧のサイズに合わせて切ったものを、鉈(なた)で半々、さらに半々と縦に割って徐々に細くしていき、最後に厚さを調整する。定規などは一切用いない。一本の鉈をもってすべて勘で割っていく。この作業を身につけるまでに、2年から3年はかかるという。
骨の「しなり」を調整する。これが均一でないと、凧は空中でバランスを失ってしまう
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整えられた骨に細い和紙を巻いてのりで貼りつけていくのが次の作業である。「巻き骨」と呼ばれるこの工程によって、絵を描いた和紙に骨がつきやすくなる。もう一つ、凧を背後から見た時の見映えを良くするのも巻き骨の目的である。「羽織の裏のようなもの」と土岐氏は言う。見えにくいところにも趣向を凝らすまさに和の文化である。
凧づくりにおいて最も重要なのは骨だ。骨の強さや反りが均等でないと、歪みが生じ、空中で凧はバランスを失ってしまう。骨を見れば凧の良しあしは分かると土岐氏は話す。
骨を貼りつけた凧の本体に伸びにくく切れにくい麻糸をつければ基本形はおおむね完成だが、これにさらに「うなり」が取りつけられる。「うなり」とは、籐を割いてテープ状にしたものを長い棒につけた弓のような形のパーツである。これが空中で風を受けて振動し、その音が凧の本体に反響してブーンブーンという「唸り声」を地上まで伝える。この音を楽しむのも凧揚げの醍醐味の一つで、凧揚げとは視覚と聴覚の両感覚を刺激する奥の深い遊びなのである。
日本の伝統文化を海外に広めたい
石川県加賀市で漆器をつくる清雅堂とのコラボレーションによるスケートボード。Amazonで一般向けに販売している
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土岐氏が凧職人一本で生きていこうと決めたのは、40代に入ってからだった。それまではいろいろな仕事をしながら、凧づくりの時間を捻出していた。児童館職員として子どもたちに伝統玩具のつくり方を指導したり、キャンプで竹から箸をつくる方法を教えたりもしたという。
「昔の子どもは、小刀の肥後守一本で何でも手づくりしたものです。その楽しさを現代の子どもたちにも伝えたいと思っていました」
30代後半から海外の凧揚げ大会に招かれることも増え、40代に入ると毎年のように世界各国を飛び回るようになった。多い時には、1年で7カ所から8カ所を回って、大会で江戸凧を揚げたり、凧づくりのワークショップで講師を務めたりすることもある。
「日本の伝統文化を海外に広めたいという思いもありますし、自分の凧を海外で売りたいという気持ちもあります。1年中注文が入るような仕事ではありませんから、暇な時は別に日本にいなくてもいいんですよ(笑)」
浮世絵は、陶器の包み紙として海外に広まり、美術作品として評価された歴史を持つ。同様に、現代の和凧も一種のアートとして扱われることがあるという。ほぼ自然の素材のみを使い、絵から骨づくりまですべて手作業で行われる繊細な工芸品としての凧に、海外の美術愛好家たちは大いに興趣をそそられるようだ。
土岐氏が凧づくりを専業としてから30年近くがたつ。70歳となった現在でも凧づくりを続けているのは、純粋に楽しいからだと土岐氏は繰り返す。つくるのも楽しいし、揚げるのも楽しい。子どもや海外の人たちに凧づくりを教えるのも楽しい。
長女の亜沙美さんが手がけた折り紙凧。子どもが家の中で遊べるようにとつくった凧だが、屋外で遊ぶのも楽しい
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「日本で凧が廃れてきたのは、単に体験する機会が減ったからだと思っています。凧揚げや凧づくりを一度体験すれば、子どもはみんな凧好きになります。実際に体験できる機会を増やしていくことが、私たち凧づくりに関わる者の役目です」
2年ほど前から、長女も凧づくりに携わるようになった。父のアイデアを基に、幼い子どもが家の中で遊べる折り紙の凧を自作し、販売している。
「凧づくりを本業にするのは難しいかもしれませんが、技術は引き継いでほしいと思っています。一代で終わらせるのはもったいないですから」
若い世代と交流し、新しい発想をどんどん吸収しながら、現代に合ったものを生み出していかないと伝統はつながっていかない──。それが土岐氏の考えだ。最近、能登の漆器店・清雅堂とのコラボレーションで、凧の絵柄をあしらったスケートボードをつくった。オリジナルのスマートフォンケースも現在販売している。
2020年は、コロナショックによって世界中の凧関連のイベントが軒並み中止となり、例年の海外渡航もかなわなかった。しかし、海外の凧ファンたちの熱気は冷めてはいなかった。米中西部のデンバーでは凧揚げのオンラインイベントが開催され、土岐氏もリモートで参加した。ニューノーマルの時代にあって、伝統行事のオンライン化も今後は進んでいくのかもしれない。
JR外房線の茂原駅からタクシーで15分ほど。九十九里浜に程近い田園地帯の中に土岐さんのご自宅と工房はありました。工房をここにつくったのは30年ほど前ですが、ご自宅は東京の江戸川区にあったそうです。13年ほど前に工房の隣に自宅を建て、引っ越してきたとのこと。鉢巻が素敵な土岐さんは、歯切れのよい江戸っ子口調で、凧づくりの工程やこれまでのご自身の歩みについて語ってくださいました。凧への愛情がひしひしと伝わってくるインタビューでした。お子さんが生まれたばかりという長女の亜沙美さんと力を合わせて、伝統の凧文化を後世につないでいっていただきたいと思います。