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武家社会を統率した尼将軍

北条政子

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武家政治の土台を固めたのは尼将軍だった...。源頼朝の妻として、鎌倉幕府の確立に尽力した北条政子。家族を次々に失い、幾多の政争をくぐり抜けてきたその人生は苦難の連続。いかにして彼女はガラスの天井を突き破ることができたのか。その強さの秘密を探ります。

北条政子は本当に悪女だったのか

日本のジェンダーギャップ指数2021

第1回の持統天皇の記事では、「世界経済フォーラム」が発表するジェンダー・ギャップ指数2019年版において日本の順位が極めて低いことを取り上げました。2021年3月30日に発表された2020年版の結果でも、日本の順位は156カ国中120位(19年121位)と状況はほとんど変わっていません。詳しく見ると政治分野が147位(19年144位)、女性管理職比率などに基づく経済分野が117位(19年115位)と、むしろ後退しています。
政財界において確かに女性の姿は少なく、ジェンダー・ギャップという視点から見ると日本の後進ぶりを痛感させられます。2021年3月8日に発表された経団連の新しい人事で、副会長に女性で初めてDeNAの南場智子氏が就任したことで話題になりましたが、70年以上もの歴史のある組織のなかで初の女性副会長とは、やはり財界の女性進出には壁があると言わざるをえません。

北条政子と源頼朝の銅像(蛭ヶ島の公園内)
北条政子と源頼朝の銅像(蛭ヶ島の公園内)

今回取り上げるのは、鎌倉時代に尼将軍として幕府を牽引した北条政子です。悪女という評価もある人ですが、果たして本当にそうだったのか。そんな検証も含めて彼女の足跡を辿ってみたいと思います。

源頼朝の妻である北条政子は、頼朝の亡き後、「鎌倉殿」として幕府のトップとなった人です。「ガラスの天井」をとやかく言う前に、女性の政界進出が極端に少ない現代の日本からみると、なぜ、そんなことが可能だったのかと不思議に思われる人もいることでしょう。ただ、持統天皇の時代もそうでしたが、女性が政治に参画することは、当時はそう珍しいことではなかったのです。今でも日本に根強く残っている「男は仕事、女は家庭」のような考え方は社会環境によって形成された無意識バイアスで、1950年代の高度経済成長期に強固になったのではといわれています。

北条時政像(出典:日本随筆大成第2期第9巻)
北条時政像
(出典:日本随筆大成第2期第9巻)

北条政子が源頼朝の妻になったのは、次のような経緯からです。平治の乱に敗れた頼朝は伊豆に流刑され、そのとき監視役となったのが、政子の父で伊豆国の豪族だった北条時政でした。そのとき頼朝は14歳、政子は4歳。それから17年後に2人は夫婦となります。1177年頃のことでした。平家が全盛の世の中で、政敵である源氏の嫡流に娘を嫁がせることに時政は強く反対しましたが、政子の思いが強く、しかも子どもが生まれたこともあり、しぶしぶ結婚を認めました。親が決めた政略結婚が多かった時代に、自らの意志によってパートナーを選んだ政子の行動は大胆で、自立心の高い生き方はここからはじまったといえます。

源頼朝の妻として多くの苦難を経験

治承・寿永の乱「源平合戦図屏風」(赤間神宮所蔵)
治承・寿永の乱「源平合戦図屏風」(赤間神宮所蔵)

地方豪族の娘が源氏の御曹司と結婚するというと玉の輿のように思えますが、当時の頼朝は流罪の身であり財産も地位もなく、平家が支配する世の中ではあまり祝福されたものではありませんでした。
流人として20年近くを伊豆国で過ごしてきた頼朝に転機が訪れたのは、1180年の治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)です。後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)の挙兵をきっかけに、各地で平家の政権に対する反乱が起こります。最初は静観していた頼朝ですが、次第に戦況が拡大し、自分にも平家の兵が迫りつつあるのを知り、ついに挙兵を決意します。頼朝は一度大敗したのち安房に逃れ、態勢を立て直し、東国の武士を集めて源氏ゆかりの地である鎌倉に本拠を構えます。このとき政子も伊豆から鎌倉に移り住み、頼朝は東国の主、鎌倉殿となり、政子は御台所(みだいどころ)となるのです。

政子を常に悩ませてきたのは頼朝の女性関係です。当時の公家や武家の男たちが複数の女性と関係をもったように、頼朝にも何人か相手がいて、それが一族を揺るがす火種になることがありました。よく知られているのが、亀の前という女性をめぐる事件です。
結婚した直後に、政子は長女の大姫を授かり、1182年に二人目の子(のちの2代将軍・源頼家)を懐妊します。政子の妊娠中に頼朝は伊豆の時代から仕えていた亀の前を寵愛し、近くに呼び寄せて通うようになります。これを知った政子は激怒し、牧の方(北条時政の後妻)の父、牧宗親(まきむねちか)に命じて、亀の前が身を寄せていた伏見広綱(ふしみひろつな)の住居を破壊。亀の前は逃げ出します。頼朝はこれに腹を立て、宗親の髻(もとどり)を切り落とし、恥辱を与えたといいます。この仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになります。政子のほうも伏見広綱を遠江国へ流罪にしています。一族郎党を巻き込んだ壮大な夫婦げんかです。

政子が悪女と呼ばれるようになったのは、こうした嫉妬心や気の強さからだといわれています。現代の倫理観をそのまま鎌倉時代に当てはめるのはむずかしいですが、当世の男女観からすると、政子が怒って当たり前のことを頼朝がしているわけで、特に妻が妊娠中の男の浮気はきつく非難されます。当時は子孫を多く残す必要のある武家の棟梁だから当たり前とされていたことに猛烈な抗議をしたわけです。

一猛斎芳虎 大姫君(出典:国立国会図書館Webサイト)葛飾北斎画 静御前(北斎館蔵)
上:一猛斎芳虎 大姫君
(出典:国立国会図書館Webサイト)
下:葛飾北斎画 静御前(北斎館蔵)

源氏はその後、平家との戦いに次々と勝ちを収め、天下を取るわけですが、頼朝よりも先に征夷大将軍になりかけたのが源義仲でした。頼朝とは対立関係にあったため、和睦をはかろうと長女の大姫を義仲の嫡男である義高と婚約させます。やがて義仲は朝廷との関係が悪化し、頼朝が送った源範頼・源義経の軍勢に討たれます。これに伴い義高も狙われ、政子はなんとか彼を救おうとしましたが、努力の甲斐なくあえなく命を奪われてしまいます。この事件にショックを受けた大姫は精神を病んでしまい、政子は娘がこうなったのは頼朝のせいだと詰め寄ります。
頼朝と政子が対立することは多く、静御前の話もよく知られています。平家討伐に多大な貢献をした義経が自分の身を脅かすのを恐れ、頼朝は義経と対立。義経の愛妾である静御前を捕らえます。静御前は身ごもっており、頼朝は「女子なら生かすが、男子なら殺す」と言い渡します。産まれたのは男子で、政子はその子の助命を懸命に願いますが許されず、由比ヶ浜に遺棄されてしまいました。非情な権力争いが行われる武家社会ではやむをえないこととわかっていても、抵抗せずにいられない。そんな根っからの情の深さを政子は備えていたといえます。

そして1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、政子はその直後に男子(後の3代将軍・源実朝)を産みます。着々と鎌倉幕府の基礎が整えられていくものの、1197年に長く精神を病んでいた大姫が亡くなり、1199年には頼朝を失い、さらには次女の乙姫までも病死してしまいます。当時の政子は悲しみのどん底にあったと伝えられています。

源頼朝亡き後の鎌倉幕府を支える

十三人の合議制

頼朝の死後は長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台(あまみだい)と呼ばれるようになります。1199年のことです。頼家はまだ18歳で経験が浅く、気まぐれで専制的な政治が目立ち、御家人たちの反発を買います。そこで北条時政、北条義時、比企能員(ひきよしかず)、三浦義澄、和田義盛、八田知家、梶原景時、安達盛長、足立遠元(あだちとおもと)、大江広元、三善康信、中原親能(なかはらちかよし)、二階堂行政ら13人による合議制が導入されます。これがいわゆる『鎌倉殿の13人』で、2022年のNHK大河ドラマの題材になっています。頼家は御家人を軽んじ、民の生活を省みず、酒食に溺れ、蹴鞠にうつつを抜かすなど征夷大将軍、治世者としての適性に欠け、さまざまな問題を起こします。鎌倉幕府は早くも2代目にして存亡の危機に陥ります。その窮地をたびたび救ったのが政子でした。

源頼家像(建仁寺所蔵)
源頼家像(建仁寺所蔵)

頼家の目に余る暴走に対して、将軍就任から1年も経たぬうちに、北条時政や宿老たちが対抗策を講じはじめます。まず頼家を支持していた梶原景時とその一族が鎌倉から追われ、討ち取られます。1203年には不摂生がたたった頼家は病に伏せ、鎌倉から朝廷に、実朝への征夷大将軍の任命が申請されます。
さらに頼家の乳母父として後ろ盾となり、急速に勢力を伸ばしていた比企一族が、北条時政の軍勢によって攻め滅ぼされます。このとき頼家と比企の娘との間に生まれた一幡(いちまん)も焼死します。これを知った頼家は激怒しますが、政子によって修善寺に幽閉され、1204年にこの世を去ります。
結果として、政子は頼家を死に追いやったわけですが、帝王学の教科書とされる貞観政要(じょうがんせいよう)を学んでいたとされる政子にとってはそうせざるをえないほど、頼家の横暴ぶりは忍耐の限度を超えていたと伝えられます。たとえ非情であっても頼朝が多大な犠牲を払って築いた鎌倉幕府を守るためには苦渋の決断を下さなければならない。そんな覚悟も伺えます。

源実朝像(出典:國文學名家肖像集)
源実朝像
(出典:國文學名家肖像集)

1205年、政子の父、北条時政を執権として実朝が第3代将軍となりますが、時政は実朝を殺して別の将軍を立てようとしたことが発覚し鎌倉から追放。その14年後の1219年、頼家の遺児で政子の孫にあたる公暁(くぎょう/こうきょう)によって実朝は暗殺され、公暁もすぐに命を奪われます。次々と肉親を失っていく政子の人生は耐えがたい悲しみに満ちたものでしたが、それを克服する強さを彼女は備えていました。
鎌倉幕府は実朝の後、京都の摂関家から2歳の三寅(みとら/のちの藤原頼経)を迎え、将軍とします。政子が尼将軍として三寅の後見となって空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、さらに政子の弟である北条義時がこれを補佐する体制となります。ここに北条氏が実権を握る執権政治が確立します。

決して政子が自ら望んで得た地位ではなく、さまざまな政争を経て事態を収拾するべく奔走した結果、尼将軍となった。そんな事情が垣間見えます。1221年、朝廷の権力の復活をめざす後鳥羽上皇と争った承久の乱では、御家人に檄をとばして幕府軍を勝利に導くなど強力なリーダーシップを発揮します。そして1225年、政子は病に伏し、69年の生涯の幕を閉じます。

ガラスの天井を突き破った尼将軍

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』では、1219年の実朝死去から1225年の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱い、その功績を称賛しています。また鎌倉時代に僧の慈円が著した歴史書『愚管抄』では、政子の業績に対して「女人入眼(にょにんじゅがん)の日本国」と評価しています。女人入眼とは女性がいきいきと活躍するさまのことで、室町時代にも政子を評価する声は高かったとされます。
悪女と評価されるようになったのは江戸時代からで、当時流行していた儒教的な価値観によって、嫁ぎ先の源氏の系統が絶えて実家の北条氏が栄えたことや政子の嫉妬深さに批判を加える書物が流布します。それらは政子のせいではなく、男性中心の女性を軽んじる価値観や容赦ない権力闘争に対して、政子がなした行動の結果といえます。

ちょっとひといきタイム

北条政子 永井路子[著] 文春文庫

北条政子を語る上でよく引き合いに出されるのが、永井路子の小説『北条政子』です。さまざまな苦難を乗り越えてきた政子の心情が細かく描かれています。ここに登場する北条政子の姿は、悪女という評価を一変させるものがあり、1969年に刊行された本ですが、新たなジェンダー論が交わされる現代においても考えさせられるところの多い作品です。

北条政子 永井路子[著]
文春文庫

人間社会は古くから「競争」と「ケア」の両輪で回ってきたといわれます。政子が果たしてきた役割は主に「ケア」の部分で、権力の暴走にブレーキをかけることでした。冷徹な政争に明け暮れる武家社会においても、人間としての心を失わない判断力で、混乱や衝突を収めてきたところにあります。もちろん「競争」の部分においても承久の乱で政子は御家人たちに檄を飛ばし、将軍としての役割を見事に果たしています。男女の格差を超えて政子が力を発揮できたのは、政子の強い精神力や高い知性も大きいですが、何よりも政局に影響力を与える権限をもっていたことです。

『いまこそ、女性の力を解き放つ』(メリンダ・ゲイツ著)
『いまこそ、女性の力を解き放つ』
(メリンダ・ゲイツ著)

ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団の共同会長であるメリンダ・ゲイツ氏は『ハーバード・ビジネス・レビュー』の2020年4月号に『いまこそ、女性の力を解き放つ』という論文を寄稿し「社会における女性の権限と影響力の拡大」を目標にすべきと説いています。そのためには、効果が高い3つの戦略を用いるべきと提案しています。

(1)
職場における最も一般的な障壁を取り除く。
(2)
社会に極めて大きな影響をもたらす分野で女性を早急に昇進させる。
(3)
現状を変革できそうな組織に対して外部からの圧力を高めるために、
新たな投資とエネルギーを振り向ける。
イメージ
※イメージ

もはや男女平等を唱えるだけでは無意味で、具体的な戦略が必要なことをメリンダ氏は説いています。なかなかジェンダー・ギャップが解消されない日本において、ブレークスルーとなるヒントがありそうです。鎌倉時代と現代のアメリカ社会を比べることにはやや無理がありますが、北条政子はこうした戦略を無意識に実行していた先駆的な女性だったのではないかとも考えさせられる場面が少なくありません。ジェンダーの壁に突き当たったとき、日本には北条政子というロールモデルがいたことを、あらためて忘れずにいたいと思います。

北条政子から学ぶこと

まちがった常識や慣習には安易に従わない。

たとえ身内でも不正に対して厳しく接する。

どんなときも人を思いやる心を忘れない。

熱意と誠意のある言葉には人を動かす力がある。

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