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加賀百万石の美学を貫いた城

金沢城

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豊臣秀吉の盟友、前田利家が築いた加賀百万石の本拠地、金沢城。豊臣政権の重鎮であったがゆえに、秀吉の死後、前田家は徳川からつねに警戒されることになる。たびたび謀反の嫌疑をかけられながらも、最大の所領をもつ大名としての存在感を維持し、家の命脈を保ってきた前田家のサバイバル戦略を金沢城は見守ってきた。

豊臣秀吉の盟友、前田利家まえだとしいえが築いた名城

金沢城
金沢城

金沢城といえば、加賀百万石の司令部である。城に隣接する大名庭園である兼六園は、日本三大庭園のひとつとして親しみ深いが、金沢城そのものはいまひとつ印象が薄かったといえる。というのも、明治以降の金沢城は「存城廃城令」で陸軍省のものになり、主要な建物以外は撤去されていたからである。しかも第二次世界大戦後の昭和24年(1949年)からは、金沢大学のキャンパスとなっていた。移転したのは平成7年(1995年)。つい最近まで城跡は大学だったのである。現在では金沢城を元の姿に戻そうという気運が高まり、かつての建物が次々と復元されている。加賀百万石の往時の姿を忠実に再現した壮麗な建造物や庭園は、城好きの人たちから熱い注目を浴びている。

兼六園
兼六園

最初にこの城を築いたのは、柴田勝家の甥で鬼玄蕃(おにげんば)として名を馳せた猛将、佐久間盛政(さくまもりまさ)である。もともとこの地には加賀の一向一揆の拠点、浄土真宗の寺院「尾山御坊」があった。織田信長の命により一向一揆を制圧した盛政は、尾山御坊の一部を生かして城を築いた。尾山御坊は寺院といっても石垣に囲まれた要塞で、ほぼ城に近い体裁を備えていたからだ。

この城の運命を変えたのは、天正11年(1583年)の本能寺の変である。織田信長の亡き後、豊臣(当時は羽柴)秀吉と柴田勝家の間で覇権争いが起こった。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いである。のちの城主となる前田利家は与力として勝家の陣営に属していたが、秀吉は若い頃から盟友であり、敵対することを望まなかった。秀吉が佐久間盛政を破ったのち、利家は勝家の陣営を離脱して秀吉につく。勝家を破った秀吉は、利家を新たな加賀の領主に任命し、金沢城は前田家の居城となったのである。このときの所領は40万石で「加賀百万石」となるのは、二代目の利長の時代からである。

前田利家と豊臣秀吉は、深い絆に結ばれた特別な関係にあった。信長の家臣として二人はともに清洲城下に住み、年がほぼ同じ(秀吉が2歳上)で、家が近所だったこともあり親密だった。秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家の妻のまつである。子のない秀吉夫妻に、利家夫妻は四女の豪姫を養女に出すなど、家族のような関係でもあった。現代のビジネス社会でいえば、二人は同じ社宅に住む同期のようなものだ。その後、秀吉はマネジメントのトップに登りつめ、利家は部下となるわけだが、その友情は終生、変わることがなかった。
秀吉の治世下で有力大名になった利家だが、しばらくは佐久間盛政の築いた城をそのまま使っていた。これを見かねた秀吉が利家の地位にふさわしい城を築くよう勧めたのが、金沢城の大規模な修築を行うきっかけだったといわれている。

卓越したマネジメントでリノベーション

赤母衣衆 前田利家像
赤母衣衆 前田利家像

前田利家は180cmを超える長身で美形だったといわれる。若い頃は派手な衣装に身を包む傾奇者(かぶきもの)で、6mを超える長槍を振り回し、「槍の又左(当時の利家の通称)」と呼ばれていた。織田信長の寵愛を受け、信長の親衛隊のような役割をもつ、赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭だった。
勇猛で豪傑なイメージが強いが、意外なことに経済にも精通した武将であった。倹約家であり、妻のまつからはケチと言われていたほどである。当時、日本に伝わったばかりの「ハイテクデバイス」だった算盤(そろばん)をいち早く使いこなし、前田家の決済は、すべて利家が自ら行ったといわれる。
加賀前田家のCEO(最高経営責任者)にして、CFO(最高財務責任者)だったのである。ちなみに現存する日本最古の算盤は利家が所有していたものである。

なぜ、前田利家は経済にも強かったのか。それは彼が若い頃に起こしたある事件がきっかけとなっている。織田信長のお気に入りの茶坊主だった拾阿弥(じゅうあみ)が、利家にしつこく嫌がらせをしていたことから、腹に据えかねて信長の目の前で斬り殺したのである。これが信長の怒りを買い、織田家から追放され、利家は2年間にわたり浪人の身となった。この浪人時代に経済的に困窮し、金銭の大切さを身をもって体験したことが、彼の経済感覚を磨いたといわれている。こうした財務のマネジメント能力が金沢城の改修にも生かされた。

前田利家が金沢城に入城したのは天正11年(1583年)だが、本格的な城の大改修を始めたのは、4年後の天正15年(1587年)からである。利家は「戦は城の外で行うもの」というのが持論だった。これは「自国の領土では絶対に戦をしない」と決めていた織田信長の影響を受けたものだ。そのため城の防御に経費をかける必要はなく、しばらくは佐久間盛政の築いた城で十分と考えていた。それよりもインフラを整備するなど、城下町の発展と領民の生活向上を優先したのである。
改修にあたっては、客臣(かくしん)として加賀に庇護していたキリシタン大名、高山右近(たかやま うこん)のアドバイスを得る。右近は摂津(大阪府)の高槻城の城主だったが、豊臣秀吉のバテレン追放令によって、多くのキリシタン大名が棄教を迫られるなか、あえて信仰を選び大名の地位を捨てた人である。信長と秀吉からも高く評価された才人で、戦のみならず築城にも精通していた。また千利休の高弟でもあった風流人である。彼を「プロデューサー」として起用することで、金沢城は当時の先端をゆく城郭に生まれ変わるのである。
文禄元年(1592年)には嫡男の前田利長(まえだとしなが)にさらなる改修工事を命じ、曲輪(くるわ)や堀の拡張が行われ、新たに天守や櫓(やぐら)が建てられた。天守は慶長7 年(1602年)、落雷で焼失するが、再建はしなかった。被災した領民に年貢や労働の負担をかけないためで、経済に通じていた前田家の高いマネジメント能力がうかがわれる。

300年のレガシーを受け継ぐ石垣の博物館

三十間長屋(左)、石川門 一の門(中)、鶴丸倉庫(右)
三十間長屋(左)、石川門 一の門(中)、鶴丸倉庫(右)

金沢城は明治になって多くの建物が撤去されたが、貴重な建物が受け継がれている。「三十間長屋」「石川門」「鶴丸倉庫」の3つは国の重要文化財に指定されている。
「三十間長屋」は二層二階の多聞櫓(たもんやぐら)で、このタイプの櫓が現存するのは金沢城と姫路城だけという稀少なものだ。「石川門」は現在の金沢城公園の表門となっているが、本来は裏門である。門をくぐると、三方が櫓で囲われた枡形(ますがた)で、ここまで堅固な枡形が現存しているのは全国的にも珍しい。多くの戦で武功を上げてきた前田家だけに「戦う城」としての機能も抜かりなく追求されている。石川門の両脇に続く土塀には石落(いしおとし)がつき、内側には鉄砲を撃つための小窓、狭間(さま)が外側から見えないように配置されている。屋根は鉛瓦葺(なまりかわらぶき)で、もし戦で銃弾が不足したときはこの瓦から鉛を抽出できるようになっていた。

菱櫓(右)と橋爪門続櫓(左)を結ぶ五十間長屋
菱櫓(右)と橋爪門続櫓(左)を結ぶ五十間長屋

これらに加えて、新たに復元された建造物が、加賀百万石の威容を少しずつ蘇らせている。2001年には菱櫓(ひしやぐら)、五十間長屋、橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)、2010年には河北門(かほくもん)が復元された。また城の南西にあった「いもり堀」も復元されている。現在の金沢城が基本にしているのは外観復元ではなく、木造復元である。当時の工法や材料を用い、できる限り同じ条件で忠実に復元する方法だ。天守の再建を望む声もあるが、当時の設計の資料がないため、復元は見送られている。

美しい建造物の多い金沢城だが、圧倒的な評価を得ているのが石垣である。前田利家は天正15年(1587年)、金沢城の改修を行う際に、石垣のエキスパートである近江の穴太衆(あのうしゅう)の集団を加賀に呼び寄せた。大名のなかでお抱えの穴太衆をもったのは利家が最初といわれる。彼らにさまざまな石垣を築かせたことから、他の城には例のないほど、多種多様な石垣が存在することになった。城の近くに戸室山という良質な石の産地があったことも石垣のバリエーションを充実させた要因になっている。

戸室石の石垣
戸室石の石垣

ここで採れる「戸室石」は赤みや青みを帯びたものもあり、色が美しく、加工がしやすいのが特徴である。また金沢城はたびたび火事に見舞われ、修復を繰り返したことから、さまざまな時代の石垣が混在しているのも特徴だ。野面積(のづらづみ)、打込接(うちこみはぎ)、切込接(きりこみはぎ)、算木積(さんぎづみ)、谷積(たにづみ)、亀甲積(きっこうづみ)など、ありとあらゆる石垣に出会うことができる。こうした金沢城の石垣は、14代にわたり絶えることなく続いてきた加賀前田家ならではの稀有な遺産といえるだろう。

城下町でも防御力を高めたグランドデザイン

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉はこの世を去るが、翌年の慶長4年(1599年)、その後を追うように前田利家は生涯を終える。利家のあとを継いだ利長は、徳川を攻める画策をしているという疑いがかけられる。利長は母のまつを人質に出し、さらに徳川秀忠の娘の珠姫を、跡継ぎの利常の正室に迎えるなどして嫌疑を晴らした。秀吉の世継ぎである豊臣秀頼の後見人として指名されていた加賀前田家であったが、急速に伸長する徳川の勢いを封じることはできず、徳川の配下につくことを余儀なくされたのである。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍につき、加賀、越中、能登の3国をあわせて122万石の領地を与えられる。加賀百万石の誕生である。それにも関わらず利長はつねに徳川に監視されている状態にあり、心が休まるときがなかった。そんな危機的な状況を打開するために、利長は慶長10年(1605年)に早々と前田利常(まえだとしつね)に家督を譲るのである。

三代目の利常は利家の四男であったが、嫡子のいなかった長男利長の養子となり家督を継ぐ。利常は側室の子だったが、長身で器量もよく利家によく似ていた。そのせいもあり徳川家康にひときわ強く警戒されたという。慶長20年(1615年)豊臣家を滅亡させた大坂夏の陣では、前田家はめざましい戦功を挙げ、家康から「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を恩賞として与える」という転封の提示があった。利常はこれを体よく断った。家康としては利常をできる限り江戸や京都から遠ざけたいという思いがあったのである。こんなエピソードも残されている。
徳川家康が死を迎える直前に見舞いに来た利常に対して「おまえを殺すつもりだったが、秀忠に止められた。くれぐれも徳川将軍家の恩義を忘れないように」という内容の言葉を残したという。以後、徳川の嫌疑をかわすことは、長らく前田家の死活問題となる。
利常は晩年になってから「うつけ者」のふりをしたという。わざと鼻毛を伸ばしたり、江戸城の殿中で立ち小便をするなど、奇矯な行動を繰り返し、「利常は年をとって、呆けてしまった」と見せかけ、前田家に対する警戒を解いたといわれている。

利常は加賀の国力を高めることに尽力した名君だった。「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほど、巧みな統治を行った。また美術・工芸・芸能の発展を推奨することで、加賀は美を重んじる平和な国柄で、徳川に謀反を起こす気がないことをアピールしたともいわれる。金沢城の随所に美しい意匠が見られるのは、そうした背景もあると考えられる。
さらに利常は密かに防備を強化している。城下の防御を高めるために、城下の入口となる浅野川口や犀川口などに寺院を集積させたのだ。これらは単なる寺院ではなく、敵が攻めてきたときには武器庫として、敵を迎え撃つ役割を担っていたという。なかでも妙立寺(みょうりゅうじ)は、別名「忍者寺」と呼ばれ、さまざまな敵を欺く仕掛けや、金沢城に通じる抜け穴まであったといわれる。

妙立寺(忍者寺)
妙立寺(忍者寺)

徳川の圧力に立ち向かいながら、幾度となく危機や困難を乗り越え、藩の経営を維持してきた加賀前田家の叡智は、現代のビジネスに照らし合わせても得るところが多い。今後も新たな復元プランが予定されている金沢城は、ますます興味の尽きない城になっていくことだろう。

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