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知略を駆使した九州最大級の城郭

福岡城

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豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛の子、長政によって築かれた福岡城。関ヶ原の戦いで東軍につき、徳川家康の厚い信頼を得た黒田家が52万石の大名として筑前(福岡)に移封されたのが、そのはじまりである。大規模な天守台がありながら、天守は築かれなかったとされるが、真相はどうなのか。幻の天守に秘められた戦略を読み解く。

黒田官兵衛・長政の父子の英知を結集した城

福岡城
福岡城

福岡城は広大な敷地をもつ城だ。国の史跡に指定されているエリアの総面積は約48㎡、城下まで加えると248万㎡にも及ぶスケールの大きさである。海から眺めたとき、多くの櫓(やぐら)が立ち並ぶ姿が鶴が舞うように見えたことから、舞鶴城という別名をもつ。江戸時代からの建造物が残る、長大な南丸多聞櫓(みなみまるたもんやぐら)は国の重要文化財に指定されている。
この城を築いたのは黒田長政だが、豊臣秀吉の軍師として知られる父の官兵衛も関与している。当時は軍師という呼称はなかったが、秀吉の天下統一に多大な貢献をした官兵衛の仕事ぶりを評して、後世の人々が軍師と呼ぶようになったのである。

ビジネスの世界でも経営者の傍らには、しばしば名参謀が存在する。ただ参謀役が優秀すぎると、経営陣から疎まれることがある。官兵衛はまさにそのタイプに当てはまる。晩年の秀吉は人たらしと呼ばれていた頃の快活さが失われ、むやみに人を疑う傾向があった。官兵衛もその才能を恐れられ、いつか自分にとって代わるのではないかと警戒される。それを察した官兵衛は早々と家督を長政に譲り、隠居の身となった。そして如水(じょすい)と名乗る。如水とは老子の「上善如水」からとったもので、水のように争うことなく流れるまま自然に生きることを善とする思想だ。わざわざ改名までして秀吉の嫌疑を振り払うことに努めたのである。

黒田長政は幼い頃から織田信長の人質となり、加藤清正や福島正則らとともに、豊臣(当時は羽柴)秀吉とおねの夫婦の元で育てられる。いわゆる秀吉の子飼いである。この子どもたちが長じて「七将」となり、自分の子を持たなかった秀吉を支えたのである。
長政は秀吉恩顧の武将ではあるが、朝鮮出兵を契機に石田三成との溝が深まってゆく。官兵衛、長政ともに、秀吉の死後、後継者は家康と見極め、早くから家康に接近してきた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで長政は徳川家康の東軍につく。自ら最前線で並外れた武勇を示しただけでなく、東軍勝利の決め手となった小早川秀秋や吉川広家の寝返り工作を行い、関ヶ原で第一の功労者といわれるほどの働きを見せた。一方で官兵衛は自らの領地である豊前の中津城を拠点に速成で軍を編成し、九州の西軍をことごとく打ち破った。家康にこの功績を認められ、黒田家は52万石の大封を得て豊前から筑前に移封される。ここから福岡城の歴史がはじまる。

黒田家の成長戦略を託した城のデザイン

黒田父子が筑前に新たな城を築こうとしたとき、住吉、箱崎、荒津(あらつ)、福崎(ふくざき)と4つの候補地があったという。選ばれたのは、すでに商都として栄えていた博多にもっとも近い福崎だった。黒田家にゆかりの深い備前の福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんで、この地は福岡と命名される。

築城にあたっては黒田長政が「縄張り(*)」を行っているが、官兵衛の意向も盛り込まれていると考えてよいだろう。(*「縄張り」とは城の配置や構造を決める設計図のようなもので、この良し悪しが城の使い勝手や防御力を左右する。)黒田家に残る史料では、長政と官兵衛の出す指示が異なり、現場が困惑していたところ、長政が自分の指示通りでよいという回答を出している。官兵衛の助言を聞きながらも、長政がイニシアティブをとって、このプロジェクトを進めていたことがうかがえる。
黒田官兵衛といえば、軍略家としてだけでなく城づくりにおいても才能を発揮し、加藤清正、藤堂高虎とともに築城の名手と謳われた男である。秀吉時代の大坂城と姫路城の築城に関わり、秀吉の朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋城の縄張りも手がけている。筑前に移封される前の本拠地だった豊前の中津城は、今治城、高松城と並ぶ三大水城と評価されている。

福岡城跡周辺
福岡城跡周辺

福岡城は慶長6年(1601年)に着工し、7年の歳月をかけて慶長12年(1607年)にようやく完成する。
官兵衛は城の全貌を見届けることなく、慶長9年(1604年)にこの世を去っている。
多くの城攻めと築城を経験してきた黒田父子だけに、その縄張りには豊富な知識と経験に裏付けされた設計がなされている。たとえば小田原攻めの際に攻めあぐねた惣構えの小田原城の堅固さ、あるいは朝鮮出兵で苦戦を強いられた堅城、朝鮮半島の晋州城など、さまざまな城の長所が取り入れられている。徹底した実戦本位であることが福岡城の設計コンセプトである。
西は大濠(現在の大濠公園)、東は那珂川、北は博多湾と水の利を生かし、極めて攻めにくい構造になっている。この城を見た加藤清正は「もしこの城が攻められても30日から40日は持ちこたえるであろう」と高く評価したという。

なかでも国の重要文化財である南丸多聞櫓は、黒田家の戦に対する考えがよくわかる。この櫓は慶長12年(1607年)に建てられたものを、嘉永7年(1854年)に再建したもので、二層の隅櫓と30間もの奥行をもつ平櫓で構成されている。通常の平櫓は突き抜けになっているものが多いが、この櫓は細かく16の部屋に分かれている。戦闘時においても、組織的に緻密な作戦を実行できるつくりになっているのだ。

また商都・博多の近くに城を築いたことも計算ずくといえる。長政は周辺の干潟を埋め立て、城下町の整備にも力を入れた。この新興エリアを博多と交流させることで活性化させ、福岡を成長させたのである。現代のビジネスでは5年あるいは10年のスパンで事業計画を立てることが多いが、福岡城のグランドデザインを描いた黒田父子は、それを遥かに上回る長いレンジで福岡の都市計画を考えていたと推察される。黒田家の継続的な繁栄が期待できる場を福岡城に託したのである。

巨大な天守台に秘めた黒田家のサバイバル

福岡城天守台
福岡城天守台

福岡城には天守はないが、大きな天守台が現存する。およそ東西25メートル、南北22メートル、高さ10メートルの大規模なもので、天守が実際に存在した場合、五層はあったのではと推測される。しかし、これまで天守があったという確かな記録が残っていなかった。果たして、天守はあったのか、なかったのか。
この問題をめぐっては、最初から建造されなかったという説と、最初はあったが何らかの事情で取り壊されたという説の2つがある。「最初からなかった」説は、正保3年(1646年)の福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』が根拠となっている。その絵には多くの櫓は見えるが、天守は存在しない。だから天守はなかったとする。
一方で「最初はあった」説は、現存する天守台にいかにも実際に天守が建っていたかのような礎石が埋まっていることが大きな拠り所である。ただ、それを裏付ける決定的な史料がなかった。
しかし、最近になって天守の存在をうかがわせる史料がいくつか出てきている。

黒田家の筆頭家老が残した『三奈木黒田家文書』では、長政が天守の起工式を家臣に命じた記録が見つかった。また『細川家史料』では、豊前・小倉藩主の細川忠興(ほそかわただおき)が元和6年(1620年)に子の忠利に宛てた手紙の中に次のような記述が発見されている。

「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候。城をとられ申し候はば、御かげを以て取り返し申す可くと存じ、右の如く申し付け候よし、申し上げらると承り候」

細川忠興 (国立国会図書館 蔵)
細川忠興
(国立国会図書館 蔵)

「長政は福岡城の天守や屋敷を崩します、と将軍に語った。徳川の世に城はいりません。もし城を取られても将軍の威光で取り返すことができますから」といった内容である。これは細川忠興が、長政が徳川秀忠に面会したときの話を聞いて、息子に知らせているものと推測される。
また細川家の筆頭家老だった松井家に伝わる『松井文庫』には、大坂城普請における長政の対応を忠興が伝えた手紙も見つかった。そこには「長政が大坂城普請の工事の遅れを取り戻すために、福岡城を崩して、石垣、天守の部材を大坂に持っていった」ということが書かれていた。

こうした史料が事実だとすると、福岡城が完成した当初は天守が存在したが、徳川の大坂城普請が行われていた元和6年(1620年)の頃には、天守を崩して大坂城の建築資材として提供していたと判断できる。
当時は福島正則が城を幕府に無断で修繕したとして改易されるなど、豊臣恩顧の大名の改易や転封が露骨に行われている時期だった。そうした時代の流れを読んだ長政が、幕府に目をつけられないように先んじて天守の解体を行ったと考えられる。ビジネスであれば、福岡城の天守の解体は創業地の本社ビルの取り壊しのようなもので、かなりの痛みを伴う。
城の天守よりも黒田家という組織の存続、家族や家臣の安全を守るほうが重要。もし長政がそう考えたとしたら、正しい経営判断だったといえるだろう。
長政の死後、後を継いだ忠之は専制的な政治を行い、お家騒動が起こる。いわゆる「黒田騒動」である。家臣の機転によって黒田家は辛うじて取り潰しを免れたが、それは長政が天守を崩し、幕府に恭順な姿勢を示していたことが、免罪符のひとつになったとも考えられる。

後世に受け継がれた官兵衛のフィロソフィー

黒田官兵衛が長政に宛てたとされる遺言状『黒田如水教諭』という史料がある。内容は国を治めるための奥義ともいうべきもので、黒田家の家訓ともいえる内容だ。そのなかに官兵衛の次のような言葉がある。

黒田家福岡城主系図

天神の罰より君の罰恐るべし 君の罰より臣下百姓の罰、恐るべし

「神の罰よりも、主君の罰よりも、臣下や百姓から受ける罰がいちばん恐ろしい。なぜなら、祈っても詑びても許されず、国を滅ぼしてしまうような事態に至る」といった内容である。それだけに大名は「万民の手本」とならなくてはいけないと説く。
ほかにも高慢なふるまいをしてはいけない。跡継ぎとなる子の教育係には正直で忠義心の高い者をつけよ、といった助言が細かく記されている。知略を尽くした戦での功績がクローズアップされがちな官兵衛だが、じつは領民のよりよい生活を願う、英明な領主だった。
秀吉の側近であった官兵衛ではあるが、贅沢な生活には興味がなく、倹約家だったことが知られている。

長政はこの教えを忠実に守った。長政もまた家臣に対して日頃の行いを正すよう命じたことが、福岡藩が黒田家の歴史をまとめた『黒田家譜』に記されている。このなかには必要以上に家を飾ることや、衣類や食事に贅沢をすることを禁じたり、裏表のある行動をしたり、嘘をつく者を監視するよう、注意を促している。人の業が渦巻く権謀術数の世界に生きてきた官兵衛と長政であるが、その真髄は義を重んじ、礼節を大切にする武士の鑑のような実直な生き方が基本となっている。二代目藩主の忠之はお家騒動を起こすが、三代目の光之からは持ち直し、黒田家は幕末まで存続する。家が継続できたのは、こうした父子二代の厳格な理念があったからこそともいえる。ビジネスにおいても老舗企業には必ず創業者の理念を受け継ぐフィロソフィーが、背骨のように存在する。

あえて壮麗な天守を持たなかった福岡城。それこそが、戦国の世と江戸をしぶとく生き抜いた黒田家の気風を示すシンボルなのかもしれない。ただ築城名人の黒田父子が、いかなる天守を築こうとしていたのか。あるいは築きあげたのか。城ファンならずとも見てみたいものだ。

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