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個人主義のプロ集団

上杉家臣団

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毘沙門天の化身として恐れられ、圧倒的な強さを誇った上杉謙信。反乱と内部分裂を繰り返す家臣団をまとめあげた統率力の源とは?独自の理念のもと高いパフォーマンスを発揮した上杉家臣団の真相。

軍神・上杉謙信を支えた
独立心の強い家臣たち

上杉謙信像(米沢市上杉博物館蔵)
上杉謙信像
(米沢市上杉博物館蔵)

上杉謙信といえば毘沙門天の化身として自ら先頭に立ち、勇猛な家臣団を率いるイメージがある。しかし、その家臣団は何かと問題が多く、極めて基盤の脆弱な組織だった。徳川、織田、豊臣、武田のいずれも、家臣団を形成する段階で少なからず障壁はある。しかし、上杉の場合は人間関係が複雑で、他の家臣団とはまた違った深刻な問題を抱えていた。そうした特殊な組織を統率したという意味で、上杉謙信とその家臣団は現代のビジネスパーソンにとって、興味深い側面をもっている。

上杉家臣団のまとまりが悪かった理由としては、その成り立ちにある。謙信の本拠地である越後は、もともと山内上杉家が守護を務めていた。これを守護代だった謙信の父、長尾為景(ためかげ)が、守護の上杉定実(さだざね)を追放して実質的な越後の当主の座についたのだ。いわゆる下剋上である。これに山内上杉家、一門衆、国人衆が反発した。もともと越後の武将たちは独立心が強く、すでに自分の基盤をもつインディペンデントな事業家の集まりのような性格をもっていた。自分たちと為景の出身である三条長尾家は対等と考える領主も多く、為景を主君と認めがたい空気があったのである。
こうした事情もあり、越後では為景が実権を握ったあとも反乱が絶えなかった。そこで為景は謙信の兄、長男の晴景に家督を譲り、自分が身を引くことで混乱を収めようとした。

長尾晴景は病弱だったこともあり、当主に適さないと考えるものがいた。そこで白羽の矢が立ったのが弟の長尾景虎、のちの上杉謙信である。14歳で初陣を飾り、非凡な軍事の才能を見せた謙信を領主に据えようとする者たちがあらわれる。このとき兄弟間の確執があったとする説もあるが、最近の研究では兄弟間の関係はよく、兄が謙信の才能を認め家督を禅譲したとされる。1548年(天文17年)、謙信が19歳のときのことである。
さらに1550年(天文19年)、守護の上杉定実が後継者を遺さずに死去し、守護代の謙信は将軍・足利義輝(よしてる)から越後の国主として認められる。これに異を唱え、反乱を起こしたのが、一門衆のなかでも最大の抵抗勢力、長尾政景を当主とする上田長尾家である。謙信は政景の反乱を鎮圧し、ようやく越後の統一を成し遂げた。


勢力範囲の広がり

義将といわれた謙信の
フィロソフィーに共鳴

1561年(永禄4年)、上杉謙信は守護の山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となる。謙信は朝廷や室町幕府の権威を尊重する人であり、将軍の足利義輝(よしてる)からの信頼も厚かった。当時の室町幕府は権力が弱体化し、三好長慶(ながよし)の影響下にあった。義輝は各地の武将に上洛を呼びかけ、幕府復権の手助けを求めたが、大軍を率いて応じたのは謙信だけだった。
謙信は義将といわれる。戦国の世にありながら、基本姿勢として侵略のための戦はしなかった。その一方で、他国から救援の要請があると、できる限り出兵し、それに応えた。謙信にとって、戦はすべて私戦ではなく公戦だったのである。

義輝は謙信を関東管領に任命することで関東の勢力をまとめ、その軍勢を京都に差し向けることで三好の勢力を一掃しようと考えたのである。従来の秩序を尊重し、混乱した戦国の世を終わらせたいと願っていた謙信は、義輝のプランを遂行する役割を担った。
上杉と関東で覇権を争っていた武田、北条、今川といった武将たちは、幕府のことはあまり眼中になく、みずからの領国を拡大することに主眼を置いている。現実主義者の多かった戦国武将のなかでは、謙信のような考えをもつ武将は稀だったといえるだろう。越後の家臣団はそうした謙信の考え方に共鳴し、仕える者が多かった。
武田との戦いは武田の圧迫を受けた村上義清を救うためであり、北条との戦いは関東管領の役割を果たすものであり、織田との戦いは信長包囲網を形成する足利義昭の要請に応えたもので、それぞれに義がある。

武田信玄像(国立国会図書館蔵)
武田信玄像(国立国会図書館蔵)

義将としての謙信を語るうえで、特に有名なのが「敵に塩を送る」エピソードだ。武田信玄が治める甲斐の国が、今川との交戦で塩が入手できなくなり困っていたところ、謙信が越後の塩を融通したという話だ。「海に面していない甲斐に塩止めすれば、困るのは民である。わたしは武田軍と矛を交えて久しいが、米や塩で民を苦しめようと思ったことはない」。謙信はそう語ったという。

上杉家臣団の旗(再現)
上杉家臣団の旗
(再現)
毘沙門天
毘沙門天

まとまりの悪い組織だからこそ、「義」のような理念が組織をまとめる背骨になる。ビジネス界でも合併や統合を行って大きくなった会社は、CI(コーポレート・アイデンティティ)の確立に力を入れることが多い。出身も考え方もバラバラのスタッフをまとめ、結束力を高めるには共通の理念のようなものが必要になる。
上杉家臣団においては「義を実践する毘沙門天の化身」がCIの中核をなすコンセプトで、毘沙門天をあらわす「毘」の旗は、そうした理念を視覚的に体現したVI(ビジュアル・アイデンティティ)といえる。信玄の旗印「風林火山」が組織のスタイルを表現しているのに対して、謙信の旗印「毘」は組織のフィロソフィーを表現していると解釈できる。こんなところにも家臣団の特性があらわれている。

ライバル武田信玄との戦いで強さを証明

上杉謙信は70回の合戦に出向き、決定的な敗北を喫したのはわずか2回だけだという。引き分けも半分以上あり、連戦連勝というわけではないが、その圧倒的な強さの秘密は謙信自身の軍才にあったことは間違いない。14歳で初陣を飾って以来、その非凡な才能は軍事のプロである古参の家臣たちの注目を集めた。家督をめぐって家臣の間で争いが起きたのも、謙信の才能を見込んで当主に推す家臣の声が強かったからだとも考えられる。

謙信の戦を支えた主な武将は「上杉四天王」と呼ばれる。宇佐美定満、柿崎景家、直江景綱、甘粕景持である。この4人は上杉家臣団を描いた絵画『上杉九将図』にも描かれている。彼らのプロフィールについては諸説あり、いろいろ不明な点が多い。
宇佐美定満は謙信の軍師のような役割を果たしたといわれる人物である。謙信に仕えるのは50歳を過ぎてからで、宇佐美流軍学の創始者といわれている。軍記物では定満ではなく定行と表記されている。
柿崎景家は上杉家臣団を代表する猛将だ。武田信玄と覇権を争った川中島の戦いで、もっとも激戦となった第四次合戦で先鋒となり、武田信玄のいる本陣まで迫る。戦闘だけでなく、内政や外交にも手腕を発揮した。鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた謙信の関東管領の就任式では太刀持ちを務めている。

紀州本川中島合戦図屏風より 信玄と謙信の一騎討ち(和歌山県立博物館蔵)
紀州本川中島合戦図屏風より
信玄と謙信の一騎討ち
(和歌山県立博物館蔵)

甘粕景持は謙信秘蔵の侍大将のひとりだ。川中島の第四次合戦では殿(しんがり)を務めたが、あまりの強さに謙信と間違われたという逸話も残されている。四天王のなかではもっとも若く、謙信と景勝の二代にわたって仕えた。
直江景綱は謙信の信頼の厚い宿老である。政務や外交でも活躍した人で、川中島の第四次合戦では、「小荷駄奉行(こにだぶぎょう)」として出陣している。現代でいうところのロジスティックス担当で戦局を左右する重要な役割を担う。直江兼続は彼の息子ではなく、娘の船の再婚相手である。跡継ぎが亡くなった直江家を存続させるために上杉景勝の側近だった樋口兼続が養子となった。

上杉九将図より上杉四天王肖像(米沢市上杉博物館蔵)
上杉九将図より上杉四天王肖像
(米沢市上杉博物館蔵)
長尾政景夫妻画像より 長尾政景肖像部分(東京大学史料編纂所 所蔵模写)
長尾政景夫妻画像より
長尾政景肖像部分
(東京大学史料編纂所
所蔵模写)

さらに四天王のほかに欠かせない人物がいる。家臣団の要ともいえる長尾政景である。かつては謙信と敵対していたが、のちに謙信の重臣となった。謙信が上洛の際には、留守居役として国を預かる存在だった。謙信が若い頃、反乱が絶えない越後の国情に嫌気がさして出奔したところ、復帰するよう説得に出向いたのはこの政景だった。彼の子である長尾顕景が謙信の養子となり、のちの上杉景勝となる。

戦略家、切り込み役、ベテラン、若手、補佐役。ビジネスの組織づくりにおいても機能的なユニットといえる。こうした多才な顔ぶれが、謙信を支えたのである。

謙信の戦術をカタチにした個のパワー

上杉家臣団を特徴づけるケイパビリティは自主独立。上杉謙信を戦国屈指の武将たらしめたのは、謙信個人の軍事の才能、統率力もあるが、家臣団それぞれのパフォーマンスの高さによるところも大きい。こんな逸話も残されている。川中島の合戦で「鬼小島」の異名をとる上杉の猛将・小島弥太郎が、武田の「赤備え」を率いる名将・山県昌景と一騎打ちしていたところ、昌景が休戦を申し出た。「主君の御曹司(武田義信)の窮地を救いたいので勝負を預けたい」というのである。弥太郎は快諾し、すぐに槍を納めた。のちに昌景が「花も実もある勇士」として弥太郎を賞賛したという。戦闘の最中に呑気な気もするが、これも義を美徳とする上杉家臣団の「社風」なのかもしれない。

上杉九将図より本庄繁長・北条高広肖像(米沢市上杉博物館蔵)
上杉九将図より本庄繁長・北条高広肖像
(米沢市上杉博物館蔵)

義という目に見えない抽象的な価値で結ばれた上杉家臣団は、やはり基盤が弱かった。本庄繁長、北条高広(きたじょうたかひろ)といった『上杉九将図』に描かれているような重臣たちも謀反を起こしている。本庄繁長は武田信玄と組んで上杉からの独立を試みる。また北条高広は武田信玄や北条氏康と通じ、反乱を起こしている。しかし、謙信はそうした家臣を赦している。彼らが反乱を起こした理由のひとつとしては、謙信の家臣に対する信賞必罰が充分ではなかったことが考えられる。

軍事の才能は傑出していた謙信だが、人事政策においては詰めの甘いところがあった。人はいかなる動機で動くかという行動経済学的な配慮に欠けていたと見る向きもある。実子のなかった謙信の死後は、甥の景勝と北条家から養子に迎えた景虎の間で家督争いが起きる。あらかじめ後継者を決めておけば家臣団の分裂は起こらなかったはずで、事業承継において十全な備えを行ったとは言いがたい。

Charisma

カリスマ経営者のトップ営業によって、短期的には大きな成果を上げるが、しばらくすると各事業部が独善的な事業を展開したり、勝手に子会社をつくったり、競合他社と業務提携を結んだりする。ビジネスの世界に置き換えると、上杉家臣団はそんな組織に似ている。社員の自由裁量や副業を認めながら、より収益力の高い組織をめざすことが求められるいま、上杉家臣団はそのケーススタディとして、さまざまな検討材料を与えてくれる。

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