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事業承継を考える -後継者たちの明暗-

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三国志の主役、曹操、孫権、劉備。類まれなカリスマ性を備えたトップの亡き後、どんな人物がどのように後を継いだのか。魏呉蜀ぞれぞれの末路をたどりながら、現代のビジネスと重ね合わせ、事業承継の課題を考察する。

カリスマの後を継ぐ人材育成が課題に

カリスマの後を継ぐ人材育成が課題に

曹操、孫権、劉備の攻防は三国志のハイライトだが、彼らの亡き後、三国の行く末がどうなったのかは、あまり話題にならない気がする。しかし後継者問題と人材マネジメントという観点からすると、三国の末路はきわめて興味深い示唆を含んでいる。日本においても後継者の問題は深刻で、帝国データバンクが2019年に発表した「後継者問題に関する企業の実態調査」によると、国内企業の約3分の2にあたる65.2%が後継者不在だという。なぜ後継者が不足してしまうのか。そんな問題にヒントを提供してくれるのも三国志なのである。

袁紹肖像
袁紹肖像

魏・呉・蜀それぞれの後継者問題を考えるとき、先に見ておきたいのが袁紹の例である。袁紹の家系は漢王朝で四代にわたり三公と呼ばれる重要な官職に就いてきた名門中の名門で、曹操が力をつける前は彼こそが次世代の天下人にふさわしいと思われていた。「官渡(かんと)の戦い」で曹操に敗れはしたが、袁紹には袁譚(えんたん)、袁煕(えんき)、袁尚(えんしょう)と3人の息子がいた。さらに袁買(えんばい)という四男がいたという説もある。彼らが結束して力を合わせれば、曹操に立ち向かうこともできたはずだ。
しかし、袁紹が後継者を指名せずにこの世を去ったため、兄弟たちは仲違いし、熾烈な後継者争いを繰り広げることになる。袁紹の考えでは子どもたちにひとつずつ州を与え、いちばん成果をあげた者を世継ぎにしようと考えていたらしいが、それが裏目に出た。もっと早い段階で後継者を選んでおけば無駄な争いは起きず、袁家の運命も違ったものになっていたかもしれない。

『ドラッカーが教える最強の後継者の育て方』(山下淳一郎 著/同友館)という本がある。そこでは経営学者のピーター・ドラッカーが、事業承継についてどんな考え方をしていたかが述べられている。その考えを集約したのが次の言葉だ。
「一人のトップマネジメントからトップマネジメントチームへの移行がなければ、企業は成長どころか存続もできない。成功している企業のトップの仕事は、チームで行われている」

マネジメントとは個人から個人へのバトンタッチではなく、経営チームを育成し、そのチームに権限を移行することが最も安全な世代交代につながるという考え方である。さらに後継者の育成についてはこう述べている。
「自らを存続させられない組織は失敗である。したがって、明日のマネジメントを担うべき人材を今日準備しなければならない」
そうした視点からすると、次代のマネジメントの担い手を息子たち個人に限定し、しかも後継者の決定を先送りにした袁紹のやり方に難があったことが明快になる。
はたして曹操、孫権、劉備ら三国のトップたちの後をどんな人物が継承したのか。どんなサポートスタッフを育成していたのか。今回はそこに焦点を当てていく。さて、あなたの会社は次世代の人材育成のために、どんな準備をしているだろうか。

後継者に恵まれながらも短命に終わった魏

曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウスイラスト:阿部伸二)
曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

曹操には男子だけで25人の子がいた。きわめて後継者に恵まれていたといえる。なかでも長男の曹丕(そうひ)、三男の曹植(そうしょく/そうち)は傑出した才能をもっていた。曹丕の上には曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)という2人の兄がいたが相次いで世を去り、曹丕が事実上の長男となった。曹丕はそつなく何でもこなす秀才型タイプで、後継者として申し分のない資質を備えていた。曹植は文学の才能があり、もっとも曹操の寵愛を受けたといわれる。持ち前の芸術家気質から失態も多かったが、それを補って余りある人間的な魅力があったという。現代においても詩人として高く評価されている。

曹操は曹丕と曹植のどちらを後継者にするか迷ったあげく曹丕に決めた。参謀役として信頼の厚かった賈詡(かく)に意見を求めたところ、彼は即答を避けたが、その代わり「袁紹と劉表のことを考えていました」と述べた。袁紹も劉表も長男を後継者に指名しなかったことで後継者争いが起きて国を失った。その事例から判断すると、長男の曹丕が後継者にしたほうが賢明であることを婉曲的に表現したのである。曹操は大いに納得し、この献策を受け入れたという。

こうして曹丕は曹操の生前から副丞相として父の補佐役を務め、曹操の死後は漢王朝からの禅譲という形式で魏の初代皇帝として即位する。現代のビジネスにも共通していえることだが、創業者の築いた基盤をさらに発展させることができるかどうかは2代目の手腕にかかっている。その人選においては曹操の目に狂いはなかった。
曹操が人材コレクターだったこともあり、曹丕のもとには優秀な人材が配置された。代表的なのが、曹丕の四友(よんゆう)と呼ばれた人たちである。司馬懿(しばい)、陳羣(ちんぐん)、呉質(ごしつ)、朱鑠(しゅしゃく)の4人で曹丕が太子の時代から仕えてきた、いわばチーム曹丕のアドバイザリースタッフともいうべき人材だ。

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しかし曹丕は即位から7年、40歳の若さで世を去ってしまう。弟たちは自分の身を脅かすものとみなし、早々に政権の中枢から排除していた。当時の中国において、ライバルとなる兄弟を亡きものにすることは珍しいことではない。日本でも源頼朝と義経、織田信長と信行など、兄弟間の骨肉の争いには多くの例がある。現代のビジネス視点からすると、プランAが遂行不能になったときに備えて、プランBを考えておきたいところだが、中国に限らず、当時の人たちにそうしたマネジメントの発想はない。

司馬懿肖像
司馬懿肖像

曹丕の後を継いだ曹叡(そうえい)はあまり有能とはいえず、しかも短命で36歳で世を去った。次にわずか8歳の曹芳(そうほう)が即位するが、彼は曹叡の実子ではなく、親族から迎えた養子である。曹叡は死の直前に大将軍の地位にあった司馬懿と曹爽(そうそう)を呼び、幼い曹芳を補佐するよう遺言を残している。曹爽は曹操の甥である曹真(そうしん)の子だが、この曹爽が魏の存続を危うくする原因となった。

司馬懿を太傅(たいふ)という名誉職に祭り上げて実権を奪い、横暴な専横政治を行い、魏の国は大いに乱れた。このときすでに60歳を超えていた司馬懿は老いたふりをして隠居する。やがて司馬懿はクーデターを起こし、曹爽の勢力を一掃する。このとき司馬懿は71歳だった。彼のあとを長男の司馬師、さらに次男の司馬昭が受け継ぎ、その子の司馬炎が魏を廃し、晋を樹立するのである。

現代のビジネスに置き換えるならば、経営能力のない創業一族がトップの座を追われ、長年功績のあった重役が経営権を握り、新しい会社としてスタートしたことになる。社名は変わったものの経営資源は受け継がれている。クーデターという形になったが、外部から侵攻したのではなく内部での交代劇であり、現代の事業承継やM&Aの視点から見ると、一種の経営権の移譲と考えることもできる。曹爽のような身勝手な経営者によるガバナンスの迷走を阻止したという意味では、ステークホルダーである官僚や軍部、人民にとって歓迎すべきことである。
優秀な経営スタッフを育成し、後継者問題に万全の手を打ったはずの曹操であったが、それでも彼の築いた体制は長く続かなかった。事業承継のむずかしさをあらためて思い知らされる魏の例である。

三国志クイズ

      • 袁紹の後継者として争った3人の息子の名前は?
      • 曹操の後を継いだ曹丕(そんひ)。その後を継いだのは?
      • 孫権の後継者、孫登(そんと)が早世したため呉で起きたお家騒動。その事件の名前は?
      • 劉備の死後、後継者の劉禅のために諸葛亮が書いた文書の名前は?
      • 「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で諸葛亮は病没するが、魏の司馬懿はその死を偽装と疑い撤退する。このできごとにちなんだ故事を何という?

気になる解答はページの最後を!ぜひご覧ください。

後継者争いで勢力が対立し、衰退していく呉

孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウスイラスト:阿部伸二)
孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

孫権が呉の皇帝に即位したのは、三国の中でもっとも遅く、229年のことだった。このとき孫権は48歳。曹操も劉備もすでにこの世になく、魏は曹叡、蜀は劉禅(りゅうぜん)が皇帝の座にあった。その後、孫権は70歳を超える天寿を全うする。では彼の死後はどうだったのだろうか。

孫権の長男である孫登(そんとう)は皇太子として、よく父を補佐した。頭脳明晰で人柄もよく将来を嘱望されていた。魏の曹丕と同じように彼にも四友(よんゆう)と呼ばれる学友がいた。諸葛恪(しょかつかく/諸葛瑾の子)、張休(ちょうきゅう/張昭の子)、顧譚(こたん/顧雍の子)、陳表(ちんひょう/陳武の子)の4人で、いずれも孫権の重臣たちの優秀な子息で、彼らのサポートに支えられて順調に世代交代が進むはずだった。しかし孫登は33歳の若さで夭折してしまう。

この孫登の死が呉にとって大きな痛手となった。後継者をめぐって、三男の孫和(そんか)と四男の孫覇(そんは)の派閥が対立し、「二宮事件(にきゅうじけん)」というお家騒動が起こってしまう。孫和を後継者としながらも、孫覇を魯の王に任命し、強い権限を与えたことが問題の発端で、この争いは約10年にわたって続くことになる。事態を収束するために孫権は、孫和と孫覇のいずれも廃嫡とし、わずか10歳の末子、孫亮(そんりょう)を皇帝とした。この後継者争いがきっかけで、孫権は陸遜(りくそん)など多大な功績のあった重臣までも失う羽目となった。やがて孫権も人生の幕を閉じる。

諸葛恪肖像
諸葛恪肖像

それからの呉は混迷を極める。まだ幼い孫亮(そんりょう)のサポート役として、太傅(たいふ)の諸葛恪がつくが、孫家の親族である孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんちん)のクーデターによって謀殺される。さらに孫亮は廃され、代わりに孫亮の兄の孫休(そんきゅう)が皇帝として擁立される。孫休は権力を私物化していた孫峻、孫綝の勢力を一掃するが若くして病没する。その後を継いだのが、最悪の暴君といわれた孫皓(そんこう)だった。孫皓は二宮事件で廃嫡となった孫和の子で、即位した当初は名君となるべく期待されたが、次第に残忍な君主に変貌する。国は乱れ、力を失い、そして魏に代わった晋に降伏する。

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孫権も曹操と同様に、周到な後継者対策をしていたが、孫登の予期せぬ早世によって計画が狂ってしまった。孫権は青年の頃は、周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、陸遜といった参謀役の意見をよく聞き入れ、張昭(ちょうしょう)など地元の名士たちを重用することで組織をうまくまとめてきた。しかし、老いるにつれて、その絶妙なバランス感覚が失われてしまった。
ビジネスの社会でも優秀な経営者が晩年になって判断力が鈍り、会社の経営を傾けてしまうことがよくある。早い段階で次の世代にバトンを渡すべきだが、後継者不足でその機会を逃してしまうことがよくある。明日のマネジメントを発展させるためには、トップの引き際が重要であることをあらためて思い知らされる、呉の末路であった。

諸葛亮を丞相として魏に対抗し続けた蜀

劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

蜀の場合、後継者問題は魏や呉とは異なる。劉備には子が少なく、後継者は嫡子の劉禅(りゅうぜん)と早くから決めていた。ただ劉備はわが子に王の資質がないことを知っていた。夷陵(いりょう)の戦いで呉に敗れた劉備は、臨終の場に諸葛亮を呼び、こう遺言を残したという。

君の才は曹丕に十倍す。必ずや能く國を安んじ、終には大事を定めん。
若し嗣子輔く可くんば、之を輔けよ。如し其れ不才なれば、君 自ら取る可し。

「あなたの才能は曹丕の十倍はある。必ずや国家を安定させ、ついに大事業を成し遂げることができるだろう。もし後継者の劉禅が補佐するに足るなら補佐してほしい。もし才能がないなら、あなたが自らこの国を取るがいい」といった内容だ。身内に有力な後継者のいない劉備は、丞相の諸葛亮に蜀の命運を託したのである。曹操や孫権と違うところは、彼らが子への継承を願ったのに対して、劉備は家臣の諸葛亮がトップの座を奪ってもいいという選択肢を与えたところにある。一族の繁栄よりも、蜀という組織の存続と隆盛を強く希望したわけである。

諸葛亮肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)、劉禅肖像
諸葛亮肖像(Pen 2019年8月1日号
CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)、
劉禅肖像

この遺言を受けて諸葛亮はあらためて劉備への恩義を感じ、劉禅を補佐することを誓う。魏の討伐に遠征するにあたり、諸葛亮が劉禅に送ったのが名文の誉れ高い『出師表(すいしのひょう)』である。

若い劉禅への訓戒、先帝の劉備から受けた恩義の深さ、宿敵である魏を征伐するに際しての決意が熱のこもった文章で綴られている。現代のビジネス社会におけるミッションやビジョンのような組織の指針、留守中にどんな政治を行うべきか、誰を頼るべきか、といったマニュアル的なアドバイスまで細かく記されているのである。

劉禅はリーダーの資質を欠いた暗君だったが、諸葛亮を父のように慕い、全面的に信頼を置いていた。この強固な絆が経営に安定感をもたらした。魏と呉に激しい内紛が起こったのに比べ、蜀に混乱が少なかったのはそのためと考えられる。

五丈原

4度目の北伐となる「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で諸葛亮は病で没する。その死を察知した魏の司馬懿は一気に攻めるが、蜀軍が反撃の姿勢を示したため、諸葛亮の死は偽装ではないかと疑い撤退する。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事は、このできごとを指す。
諸葛亮の後を継いだのは蒋琬(しょうえん)、そしてその後は費禕(ひい)だった。二人とも諸葛亮が死の直前に自ら指名した人物だった。

この権限の委譲はドラッカーがいうところの「一人のトップマネジメントからトップマネジメントチームへの移行」に近い。劉備の臣下に加わったばかりの諸葛亮は、劉備の陣営に人材が不足しているのをみて、組織的な人材育成を強化してきた。万が一、劉備が亡くなっても支障なく機能するマネジメント体制が諸葛亮の人事政策によって確立されていたといえる。
王位の継承をめぐる権力の争奪だと血で血を洗うような争いが起こりがちだが、実務の委譲であれば大きなもめごとは回避できる。そんな考えもあったかもしれない。

諸葛亮は国政の中心にして軍の最高指導者でもあり、彼の抜けた穴はあまりにも大きかった。2人はそんな諸葛亮の功績の偉大さを心得た人物で、彼の真似はできないからこそ、諸葛亮の敷いたレールの上を慎重に走り続けた。諸葛亮の死後、蜀は約30年間にわたり大きな混乱もなく存続したが、これは2人の功績ともいえる。しかし守る一方で新たな成長戦略を構築できなかった面もある。費禕が魏の降将の郭循(じゅん)に殺されてからは彼の代わりを務めるだけの人材がなく、魏への大軍派遣を主張していた姜維(きょうい)の勢いを止められなくなる。無理な戦が続き国はどんどん疲弊していく。かつて病床にあった諸葛亮に後継者をたずねたとき、蒋琬、費禕の次は誰がふさわしいか聞くと彼は沈黙したという。さすがの諸葛亮もそこまでの準備はできなかったということなのか。優れた人材が育っていても、組織的な育成を続けていなければ、やがて人材は枯渇し、組織は衰退する。蜀の歩んだ道は人材育成の重要性をリアルな実例として示してくれる。

第6回のまとめ

曹操

魏の後継者

長男の曹丕が後を継ぐが早世。
次の曹叡、曹芳も長続きせず、太傅の司馬懿に実権を握られる。

現代のビジネスにたとえると...禅譲型

業界トップ企業の二代目が突然、世を去る。
身内のライバルを排除していたため人材不足に。
創業者一族はやむなく古参の重役に経営権を譲り渡す。

孫権

呉の後継者

長男の孫登が33歳の若さで夭折。
熾烈な後継者争いが起き、暴君も登場し、国力が衰退する。

現代のビジネスにたとえると...自滅型

後継者に内定していた若き御曹司が亡くなるが、有力な後継者が2人いたため組織の派閥争いが激化。
足の引っ張り合いで、有能な人材がいなくなった。

劉備

蜀の後継者

丞相の諸葛亮が全権をまかされ、国の安定化に努める。
諸葛亮の死後もしばらく善政が続く。

現代のビジネスにたとえると...委託型

後継者が人望も経営能力もなく、亡き先代がもっとも信頼していた参謀役にすべてのマネジメントを委託。
経営のプロによる戦略的な組織運営が行われる。

曹操、孫権、劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

曹操、孫権、劉備がこの世を去った後の三国志は、祭りの後のような寂しさが漂う。諸葛亮と司馬懿の戦いもスリリングだが、劉備と曹操が激突したときのような熱量は感じられない。だが、この終盤こそ三国志のクライマックスと考える人もいる。カリスマ経営者が去った後の空白をどう埋めるかという問題は、現代のビジネス社会においても興味深い問題である。並外れた才能をもった人物が多数登場した中盤に比べ、終盤はやや小粒な人たちが主人公となり、先人たちの経営資源を守るべく奮闘する。そこには21世紀のわたしたちがより深く共感できる人間ドラマが横たわっているといえるだろう。

クイズの解答はこちら!

  • 「袁紹の後継者として争った3人の息子の名前は?
    →袁譚(えんたん)、袁煕(えんき)、袁尚(えんしょう)
  • 曹操の後を継いだ曹丕(そんひ)。その後を継いだのは?
    →曹叡(そうえい)
  • 孫権の後継者、孫登(そんと)が早世したため呉で起きたお家騒動。その事件の名前は?
    →二宮事件(にきゅうじけん)
  • 劉備の死後、後継者の劉禅のために諸葛亮が書いた文書の名前は?
    →出師表(すいしのひょう)
  • 「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で諸葛亮は病没するが、魏の司馬懿はその死を偽装と疑い撤退する。このできごとにちなんだ故事を何という?
    →死せる孔明、生ける仲達を走らす
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