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結束力を高めるべし -組織をまとめる人事-

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魏呉蜀の人事の特性をみながら、現代のビジネスにも通用する組織運営のヒントを探っていく。バラバラになりがちな組織をどうまとめる?重鎮と若手をどう配置する?コンプライアンスはどうする?など課題は尽きない。

チームで力を発揮できる組織を維持する

黄巾の乱
黄巾の乱

どんなに優秀なスタッフを揃えていても、適材適所に人員を配置しないと組織の力を十分に発揮できない。そのことを如実に教えてくれるのが三国志だ。漢王朝の弱体化に伴い、さまざまな新興勢力が現れては消えてゆく。その様相は現代のベンチャーやスタートアップの興亡にも似ている。
魏呉蜀の三国が樹立される前に、黄巾(こうきん)の乱があり、漢王朝の衰退に乗じて権力を私物化する者たちがあらわれる。その代表的な人物が董卓(とうたく)だが、父子の契を結び、自分の身辺警護をまかせていた呂布に命を奪われる。自分の利益を優先した強欲な態度と、部下を捨て駒のように扱うやり方では、組織として機能せず、1800年以上前の中国であろうと長続きしない。どう人材を配置するかで組織のカルチャーも変わってくる。

「ティール組織」(フレデリック・ラルー著/英治出版)
「ティール組織」(フレデリック・ラルー著/英治出版)

日本で2018年に刊行された『ティール組織』(フレデリック・ラルー著/英治出版)という本が注目されたことがある。新しい組織のあり方について示唆に富んだ提言がなされているが、そこでは組織の段階と性格によって7色で分類されている。

(1) 無色/血縁関係中心の小集団。
(2) マゼンタ/神秘的:数百人の人々で構成される種族。
(3) レッド/衝動型:組織生活の最初の形態。恐怖による支配を行う。
(4) アンバー/順応型:規制、規律、規範による階層構造をもつ。
(5) オレンジ/達成型:実力主義に基づく効率的で複雑な階層組織。
(6) グリーン/多元型:平等と多様性を重視する組織。
(7) ティール/進化型:ボスのいない自立的な組織。

董卓肖像
董卓肖像

段階が上がるほど進化した組織ということになる。三国志の時代に当てはめてみると、董卓の掌握する組織は、まさに恐怖に支配された「(3)レッド/衝動型」といえる。この董卓を倒すために反董卓連合が結成されるわけだが、漢王朝の権威を復活させ、秩序の回復を求める「(4)アンバー/順応型」と、実力主義によって漢王朝に代わる新しい世の中をつくろうという「(5)オレンジ/達成型」がせめぎあう、そんな構造のドラマとしても見ることができる。
さすがに「(6)グリーン/多元型」「(7)ティール/進化型」のような先進性をもった組織モデルは出てこないが、変化の激しい三国志の時代には、復元力のある「レジリエンス」の性格をもった「(5)オレンジ/達成型」の組織が強いことがわかる。

いかにして結束力を高め、強い組織を維持するか。魏呉蜀のいずれも新興国で、人材が流動的であり、組織の結束力を高めるのはそう容易ではない。むしろ結束の弱い時期のほうが平常といった感がある。ヒューマンリソースやエンゲージメントなどという概念がない時代だが、三国の抱えていた課題は現代にも共通するところが多い。あなたの組織に活かせるヒントはあるだろうか。

才能ある者を重用した実力主義の魏

曹操肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
曹操肖像
(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

結束力という点では、初期の曹操陣営はまとまりのある組織ではなかった。その原因のひとつに曹操の急進性が考えられる。三国志の時代は儒教の伝統が重んじられていたが、曹操はこれを旧弊なものとみなし、儒教にとらわれない革新的な政治をめざしていた。また賄賂や権力の濫用が横行していたが、曹操は地方の役人時代から不正を厳しく処罰する姿勢をとっていた。
臣下の中にはこうしたやり方に批判的な者も多く、その組織は決して一枚岩ではなかった。それにも関わらず強さを維持できたのは、「乱世の奸雄(かんゆう)」すなわち権謀術数に長けた英雄といわれた曹操の傑出した才能と、重臣たちの献身的なサポートがあったからといえる。では曹操陣営の顔ぶれを見てみよう。重要な局面に登場し、なおかつ正史『三国志』に立伝のある者を選んでいる。

曹操陣営

魏

主な参謀役

荀彧(じゅんいく) 荀攸(じゅんゆう) 賈詡(かく)
鍾繇(しょうよう) 程昱(ていいく) 郭嘉(かくか)
董昭(とうしょう) 劉曄(りゅうよう) 陳羣(ちんぐん)
鍾繇(しょうよう) 許攸(きょゆう)

主な武将

夏侯惇(かこうとん) 夏侯淵(かこうえん) 曹仁(そうじん)
曹洪(そうこう) 曹休(そうきゅう) 于禁(うきん)
張遼(ちょうりょう) 張郃(ちょうこう) 楽進(がくしん)
李典(りてん) 徐晃(じょこう) 許褚(きょちょ)
満寵(まんちょう)

上:荀彧肖像、下:夏侯惇
上:荀彧肖像、下:夏侯惇

魏の人材はとにかく層が厚い。このほかにも有能な人物がたくさんいた。曹操の陣営には、コアメンバーともいうべき2つのグループがある。まずはブレーンとして戦略を献策した、荀彧や荀攸を中心とする名士たちのグループ。彼らは荀彧の故郷である豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)郡出身である。そして最前線で曹操とともに戦った、夏侯惇や曹仁を中心とした曹家の親族のグループ。この2つのグループが魏の結束力を高める大きな役割を果たした。さらに曹操が全国に広く賢才を募ったため、各地から多くの人材が集まっている。こうした智謀、武勇に優れた人たちが曹操を支えた。かつて劉備に軍師として仕えた徐庶という者がいたが、彼はのちに曹操のもとで働くことになるが、あまり出世できなかった。のちに諸葛亮が「徐庶ほどの男でも重用されないのか」と魏の人材の充実ぶりに驚いたという。

魏の特色として挙げられるのは、徹底した実力主義と成果主義だろう。現代のビジネスにたとえると、急成長を遂げているベンチャー企業と似ている。急速にマーケットの規模を拡大しているので人手が足りず、つねに幹部候補を募集しているような状況だ。「うちは仕事はきついけど報酬がいい。大きな仕事をまかせてくれてやりがいがある」といった士気の高さが、組織を強くするバックボーンとなっている。従業員の満足度、すなわちES(Employee Satisfaction)が高いといえるだろう。

陳宮肖像
陳宮肖像

反旗を翻す者もいる。もっとも激しかった反乱は、陳宮(ちんきゅう)と張邈(ちょうばく)によるクーデターだ。曹操が生涯最大の失策といわれる「徐州の大虐殺」を行っている間に、腹心の陳宮と張邈が、呂布(りょふ)を招き入れて、曹操が治める兗州(えんしゅう)をのっとろうとしたのである。重臣たちの献身的な働きと、イナゴの襲来によって、反乱は1年以上かかってようやく収束したが、組織に与えたダメージは甚大だった。陳宮によると謀反の原因は次のようなことになる。

「以前から自分の才能をもっと生かしたいと思っていた。だが、曹操は賢すぎて献策のしようがない。呂布なら自分の思い通りに動かせると思ったが、呂布は暗愚すぎて自分の策略の価値を理解できず、ちっとも採用しない。呂布が自分の言うことを聞いていれば勝てたのだ」

自分勝手な言い分ではあるが、人材活用のむずかしさをよく表した実例といえる。たとえ優秀な人材を集めても、本人の実力や希望に見合った仕事や地位を与えないと、かえって組織に危害を与えるファクターとなり、結束力を弱めることになる。ヒューマンリソース・マネジメントは、リスク・マネジメントでもあることをあらためて思い知らされる。

三国志クイズ

  • 呂布と父子の契を結び、権力を私物化したのは誰?
  • 曹操の重臣で陳宮とともに反逆した武将の名前は?
  • 呉の名門出身で呂蒙の後に大都督になった人は?
  • 蜀の五虎将軍、関羽、張飛、趙雲、馬超、もう一人は?
  • 「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名な馬謖は誰の愛弟子?

気になる解答はページの最後を!ぜひご覧ください。

地元の名士との関係性を尊重した呉

孫権肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
孫権肖像
(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

呉は孫権(そんけん)の父、孫堅(そんけん)の時代から国づくりがはじまるが、当初はあまり結束の固い組織とはいえなかった。孫堅は袁術(えんじゅつ)の配下で頭角をあらわし、武功によって江東での勢力を拡大してきた新興の豪族である。地元の名士たちからすれば、古株の重役たちを飛び越えてトップに収まった新参者の経営者のような者であり、反感をもつ者が少なくなかった。父の跡を継いだ兄の孫策も武勇に優れた人物で大いに勢力を伸ばしたが、名士たちと対立し、関係をさらに悪化させてしまった。
早逝した兄の跡をわずか19歳で継いだ孫権にとっては、名士たちとの関係修復こそ重要課題だったのである。呉の主な参謀役と武将を見てみよう。

孫権陣営

呉

主な参謀役

周瑜(しゅうゆ) 魯粛(ろしゅく) 呂蒙(りょもう)
陸遜(りくそん) 張昭(ちょうしょう) 張紘(ちょうこう)
諸葛瑾(しょかつきん) 孫邵(そんしょう) 顧雍(こよう)

主な武将

太史慈(たいしじ) 程普(ていふ) 黄蓋(こうがい)
韓当(かんとう) 蒋欽(しょうきん) 周泰(しゅうたい)
甘寧(かんねい) 凌統(りょうとう) 徐盛(じょせい)
朱然(しゅぜん)

上:陸遜肖像、下:張昭肖像
上:陸遜肖像、下:張昭肖像

呉には陸氏、顧氏、張氏、朱氏という「呉の四姓」と呼ばれる名士のグループがあり、孫権はこれらの氏族を積極的に臣下に採用することで、結束力を高めようと考えた。その代表的な存在となったのが陸遜である。陸氏の一族はかつて孫策の攻撃を受けたことがあり、孫家に対していい思いをもっていなかったが、孫権の承継に伴い、仕官することにした。このとき陸遜は21歳である。陸遜は孫権をよく補佐し、孫権も彼の才能を高く評価し、孫策の娘を妻として縁組をするなど良好な関係を築いていく。夷陵(いりょう)の戦いでは大都督として呂蒙の後継者になり、蜀を打ち破る功績を残した。

その一方で扱いに苦心したのが張昭である。張昭は徐州の出身で、同じ張でも「呉の四姓」の張氏とは異なる。学識のある人格者にして地元の名士の中では最長老、広く人望を集める人物だった。孫権は彼を重用しつつも、初代の丞相には孫邵、二代目には顧雍を任命する。名士たちの間では張昭こそ丞相にふさわしいという声が大多数だったが、孫権はそうしなかった。彼を丞相にすると名士たちの意見が強くなり、組織運営が困難になると考えたのである。

慎重論を説くコンサバティブな重役よりも、多少のリスクはあっても新しいことにチャレンジする気概をもった若手と仕事をしたい。現代のビジネスに置き換えると、そんな心境だろうか。周瑜にしても、陸遜にしても、最初は古参の武将たちに甘くみられるが、次第に尊敬を集めるようになる。こうした若い力が組織に勢いをつけた。
だが、孫権が張昭の助言を受け入れなかったせいで、公孫淵(こうそんえん)に欺かれるという事件が起こる。孫権は大いに反省して張昭の家まで出向き、門前払いをされながらも詫びを入れた。組織の結束を維持するうえで、重鎮の役割の大きさを考えさせられる事例である。

呉の重要人物たちは残念ながら不慮の死を遂げた人が多い。周瑜は36歳、魯粛は46歳、呂蒙は42歳とみな世を去るのが早い。彼らがもう少し長生きしていたら、孫権の理想はより望ましい形で実現していたかもしれない。
陸遜は63歳、孫権も71歳まで生きながらえた。晩年は不幸な対立があったが、孫権と陸遜との間に築かれた約40年にわたる信頼関係は、呉の経営基盤を安定させるうえで大いに役に立った。

現代のビジネスでは経営のプロフェッショナルを外部から招くことで、必要な即戦力を得ることができる。だが、その施策がコーポレートカルチャーになじまず、なかなか成果が現れないという話をよく聞く。組織の結束力は一朝一夕に得られるような性質のものではない。陸遜と孫権の関係は、時間をかけて築いた人と人の絆があってこそ、組織の財産として生きることを教えてくれる。

公平で厳格な人事政策を基本とした蜀

劉備肖像(Pen 2019年8?1?号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
劉備肖像
(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)

初期段階の劉備の組織をみると、臣下も兵も少なく、領地すらない。劉備、関羽、張飛の結束力はすこぶる強い。だが、その同心円状に人の輪が広がるだけで、命令系統の整った組織ではなかった。
劉備のもとに集まる人たちは、彼の情義を重んじる姿勢、度量の大きさ、裏表のない誠実さなどに惹かれるタイプが多い。曹操にしても、孫権にしても人間的な魅力を備えていたと思われるが、劉備の場合は、特に「この人のために働きたい」という魅力が備わっていたようである。
したがって、その組織は劉備とその仲間たちのような、男気のある傭兵集団のような有様だった。

諸葛亮が加入してからは、そうした劉備がもつ天性の人柄のよさ、漢王朝を復興させるぞという熱い志に、諸葛亮の冷静沈着なマネジメント能力が加わることで、魏に対抗する組織としての存在価値とポテンシャルが増し、ようやく人材が揃ってくる。益州を手に入れ、蜀の国を打ち立てることで人材の幅も一気に広がった。

劉備陣営

蜀

主な参謀役

諸葛亮(しょかつりょう) 龐統(ほうとう) 法正(ほうせい)
姜維(きょうい) 許靖(きょせい) 麋竺(びじく)
孫乾(そんけん) 簡雍(かんよう)

主な武将

関羽(かんう) 張飛(ちょうひ) 黄忠(こうちゅう)
馬超(ばちょう)趙雲(ちょううん) 呉懿(ごい) 馬良(ばりょう)
馬謖(ばしょく) 李厳(りげん) 魏延(ぎえん)

蜀の人材グループは大きく分けて3つで構成される。(1)関羽、張飛、趙雲など古くから一緒だった者、(2)諸葛亮の出身地、荊州の人脈で得た者、(3)益州獲得後に臣下になった者。現代のビジネス社会でもそうだが、M&Aなどでこうした異なるカルチャー人たちを一緒にすると必ずといっていいほど軋轢が起こる。ただ、それをうまく回避しようとする配慮が蜀にはあった。

上:関羽肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)下:馬超肖像
上:関羽肖像
(Pen 2019年8月1日号
CCCメディアハウス
イラスト:阿部伸二)
下:馬超肖像

たとえば名将として高名な馬超が臣下に加わったとき、荊州を治めていた関羽は馬超がどんな人物か知りたく諸葛亮に手紙で尋ねた。諸葛亮の返事の内容はこうだった。

「馬超将軍は張飛将軍に匹敵するが、あなた(関羽)ほどではない」

関羽は大いに喜んだという。プライドの高い関羽の心理を読んで、あえて波風の立たないようにしたのである。
また関羽、張飛、黄忠、馬超、趙雲の5人は蜀の五虎大将と呼ばれたが、黄忠は大抜擢ともいえる人選だった。この厚遇に対して関羽が異議を唱えるのではと諸葛亮が心配したところ、劉備が「関羽には自分からきちんと理由を説明しておく」と答えた。益州の人材を新たに加えることで、全体のバランスをとり、組織の結束力を高めたいという狙いだが、古参の重臣たちにも説明責任を果たすという点では、情義を重んじる蜀らしいチームワークを大事にした組織といえる。

馬謖肖像
馬謖肖像

蜀の結束力を語るうえでは「泣いて馬謖を斬る」の故事も欠かせない。魏を討つ第一次北伐において、諸葛亮が目をかけていた馬謖に先鋒の指揮官をまかせたところ、作戦の指令を守らず、独断で行動したことが原因で大敗する。わが子のように接してきた馬謖だったが、公明正大な法を重んじてきた諸葛亮は馬謖に死を命じる。そして、みずからも降格を願い出て、丞相から3階級下の右将軍、丞相代理となる。

もし人の才能を重んじる曹操であれば、特例として馬謖を許し、次のチャンスを与えたかもしれない。現代人から見ると敗因を分析して次に勝てばいいじゃないか、という考えもある。だが魏や呉に比べて結束力の弱い蜀を維持するには法を守ることが何よりも大切であり、そうしないとこの国は柱を失い崩壊してしまうと諸葛亮は判断した。コンプライアンスとフェアネスを最優先したのである。
現代の社会において、組織ぐるみの隠蔽、トップの責任回避などで信頼を失ってしまった企業や団体は少なくない。ルールを厳守することで組織の未来を守る道を選んだ諸葛亮の姿勢は、「義」とは何かをあらためて問いかけてくる。

第4回まとめ第4回まとめ

曹操
魏の結束力とは

徹底した実力主義と成果主義。
結果を出せば評価されるという文化が組織全体のやる気につながる。

孫権
呉の結束力とは

有力な名士たちをバランスよく配置しつつ、若い力を積極的に活用。
組織にチャレンジ精神を生み出す。

劉備
蜀の結束力とは

情義を重んじた人事政策と公明正大な法の適用で、組織へのロイヤリティを高める。

曹操、孫権、劉備肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)

まさに人材マネジメントは経営戦略そのもの。どう人材を活用するかという人事戦略で、組織のカルチャーが変わってくる。いつの時代も変革を先取りした「攻めの人事」が必要であり、どんなことが起こっても組織全体でスピーディかつ的確に対応できるチームとしての強さが、今後ますます重要性を増すに違いない。

クイズの解答はこちら!

  • 呂布と父子の契を結び、権力を私物化したのは誰?
    →董卓(とうたく)
  • 曹操の重臣で陳宮とともに反逆した武将の名前は?
    →張邈(ちょうばく)
  • 呉の名門出身で呂蒙の後に大都督になった人は?
    →陸遜(りくそん)
  • 蜀の五虎将軍、関羽、張飛、趙雲、馬超、もう一人は?
    →黄忠(こうちゅう)
  • 「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名な馬謖は誰の愛弟子?
    →諸葛亮(しょかつりょう)

※⑤のクイズにつきましては、読者のT様からいただいたコメントを元に問題を作成いたしました。
T様、コメントをお寄せいただきありがとうございました。

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