参謀役の層の厚さが組織を強くする
前編では魏・呉・蜀を代表する参謀役に焦点を当てた。魏は荀彧(じゅんいく)、呉は周瑜(しゅうゆ)、蜀は諸葛亮(しょかつりょう)と、傑出した能力をもつ英才たちはトップの絶大な信頼を得て、補佐役として重要な意思決定をサポートした。三国志には他にも多くの参謀役が登場するが、特に曹操のもとには多くの知恵者が集まってきた。
組織が成長するにつれ、トップと側近だけではスピードのある意思決定ができなくなってくる。事業をより大きく発展させるためには、組織の分業が必要不可欠となり、トップと同等の判断ができる多くのブレーンが求められる。
現代のビジネス社会において、参謀役というとご意見番のような役割と思われがちだが、それでは真の参謀は務まらない。トップと同じ経営者視点を持ち、組織全体のマネジメントに目配りの効く人材でなくてはならない。さらに言えば、万一のトラブルでトップが業務を執行できない場合、業務を代行できる見識と能力が必要とされる。それには優秀な頭脳だけでなく、現場のスタッフと的確なコミュニケーションができて、彼らと信頼関係を構築できる人間力も必要になるだろう。大規模な組織にはこうした人材をできる限り多く揃えておくことが望ましい。
上:「絵本通俗三国志 2の3編 曹操官渡戦袁紹」より袁紹肖像(国立国会図書館蔵)
下:沮授肖像 |
どんなに優秀な参謀役を得ても、トップが助言を聞き入れる耳をもっていないと、組織の力にならない。三国志の場合は袁紹(えんしょう)が反面教師としてよく引き合いに出される。名門の家に生まれ、もっとも覇者に近いポジションにいながら曹操に敗れ去ってしまった。その原因のひとつとして人材活用のスキルの低さがあげられる。
たとえば、彼の第一の参謀役だった沮授(そじゅ)という人物は天下に聞こえた英才で、袁紹に優れた献策をしてきたが、案を受け入れなかったり、判断を留保したり、せっかくのインテリジェンスを無駄にしてしまった。曹操との天下分け目の決戦となった「官渡の戦い」では、袁紹軍の兵力が曹操軍をはるかに上回ることを活かし、長期の持久戦を前提にした戦略を提案したが、勝ちを急ぐ袁紹は短期戦を選択し、結果として大敗を喫することになった。そんな袁紹を見限り、ライバルの曹操に仕え、活路を見出した者も少なくない。
時代の変化に対応できない保守的な組織からは人材が流出する一方、変化を恐れないチャレンジ精神に富んだ組織には優秀な人材が集まる。このことは三国志の時代も現代のビジネス社会もそう変わらないといえる。あなたの組織は参謀役が存分に力を発揮できる場所だろうか。
軍事に神がかり的な才能を見せた、郭嘉
郭嘉肖像
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前編に登場した魏の荀彧(じゅんいく)は、行政から軍事に至るすべてにおいて有能な人物だったが、優れたヘッドハンターでもあり、多くの逸材を曹操に推薦している。彼の推薦でひときわ大きく開花したのが郭嘉(かくか)だ。彼は袁紹に仕官しようとしたが、袁紹に会うなり「仕えるに値しない人物」と判断し、仕官をやめてしまったという。
それとは対象的に曹操に会ったときは「これぞ求めていた君主だ」とたちまち魅了され、曹操も「自分の大業を成し遂げてくれるのはこの男だ」と感じ、意気投合したという。やがて郭嘉は軍師祭酒(ぐんしさいしゅ)をまかせられる。軍師祭酒とは曹操が創設したポストで参謀本部長のような役割をもつ。彼は荀彧よりも7歳も若く破天荒なところもあったが、何よりも才能を重視する曹操に重く用いられた。郭嘉の凄みは、その読みの深さである。常人では思いつかない、鋭い予見力、洞察力、分析力で、しばしば曹操の重要な意思決定をサポートしている。
曹操肖像
(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二) |
曹操と袁紹の決戦が繰り広げられた「官渡の戦い」では、魏の防御が手薄になることを見越して呉の孫策が本拠地である許都を急襲する動きを見せた。これに対して袁紹との戦いをやめ、防御を固めるべきではないかという声が臣下からあがった。郭嘉の見立てはこうだった。
「孫策は江東における勢力を一気に拡大しようと急ぎすぎである。激しい粛清を行うなど、すでに人々の反感を買っている。復讐のために孫策の命を狙う者もいるが、孫策は気づいていない。彼は近いうちに暗殺されるだろう」
実際その通りになり、孫策は刺客によって命を奪われた。曹操は背後を気にすることなく袁紹との戦いに専念することができたのである。
官渡の戦いで敗れた袁紹が病没した後、その子である袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)が袁家の後継をめぐり争いをはじめる。曹操はこの内紛を利用して一気に袁家を滅ぼそうとしたが、郭嘉はこう諭した。
「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、放っておけば勝手に後継者争いをはじめる。ここはいったん兵を引いて油断させ、変化が起こるのを待つのがよろしい」
曹操がこの助言を採用して撤兵し、その兵力を荊州の劉表に向けると、袁譚と袁尚は曹操が攻めてこないと思い再び争いをはじめる。この混乱に乗じて曹操は袁家の兄弟を攻め、袁紹の支配していた冀州(きしゅう)を手に入れるのである。
曹操に敗れた袁尚らは北方の烏丸(うがん)へ落ち延びた。曹操が烏丸を攻めようとしたとき、臣下の多くは劉表が客分として荊州に滞在する劉備を使って、魏を攻めるのではないかと危惧した。しかし郭嘉はその心配はないと分析する。
「劉表は自分が劉備を使いこなせる器ではないことを自覚している。劉備が活躍すると自分の地位が奪われると考えているので劉備を出兵させることはない。安心して遠征してよろしい。いま討つべきは袁尚らと烏丸である。兵貴神速(兵は神速を貴ぶ)。千里先の敵を襲撃するには軍の装備を軽くし、進軍を速めることが重要である。敵に準備をさせず、不意を突くべし」
曹操はこの策を受け入れて、烏丸を一気に攻め、勝利を収める。しかし、この遠征で郭嘉は体調を崩し、命を落としてしまう。曹操の悲嘆ぶりは相当のものだった。
郭嘉は謹厳実直な組織人ではなく、アウトサイダー的な生き方を好んだ人だった。平時はあまり仕事をせず、たまに曹操に献策をするという勤務状況だったらしい。うるさ型の臣下からは不真面目と見られ、しばしば曹操のもとに苦情が届いた。規律に厳しい曹操だが郭嘉を常識やルールで縛ってしまうと、持ち前の能力が発揮されないと考え、放任していたといわれる。
現代のビジネス社会でも、自己の裁量で自由に仕事ができるプロジェクトチームを組織し、イノベーションを創発しようという試みがあり、多くの成功例を生み出している。郭嘉に提供されたポジションはそれに近い。束縛のないのびのびとした環境がクリエイティブな発想を生み出すことを、第一級の文学者でもあった曹操は理解していたのかもしれない。
三国志クイズ
- ①袁紹の最盛期に第一の参謀役といわれた人の名前は?
- ②曹操が新設された役職に任命された郭嘉。その役職名は?
- ③魯粛と比較された春秋戦国時代の縦横家の2人は誰と誰?
- ④臥竜(がりょう)の諸葛亮に対し、鳳雛(ほうすう)と呼ばれたのは誰?
- ⑤劉備が法正を軍師とし、魏の夏侯淵(かこうえん)を破った戦いのことを何という?
気になる解答はページの最後を!ぜひご覧ください。
卓越した構想力と交渉力を秘めた、魯粛
魯粛肖像
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魯粛(ろしゅく)は周瑜(しゅうゆ)とともに赤壁の戦いを指揮した名参謀だ。正史『三国志』では孫権が魯粛を評した言葉として次のように記されている。
「その計略を決するや、意は張・蘇を出づること遠し」
いったん戦略を決定すると、それを実現しようとする思いは張儀(ちょうぎ)や蘇秦(そしん)を上回っていたということだ。張儀と蘇秦は春秋戦国時代の紀元前3世紀に活躍した縦横家と呼ばれる人たちである。張儀は合従策(がっしょうさく)を説き、魏と秦を同盟させ、秦の宰相として名を馳せた。蘇秦は連衡策(れんこうさく)を説き、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。つまり魯粛は外交家、折衝役としてとびきり優れていたことになる。
周瑜肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
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魯粛の家はもともと裕福な資産家だったが、世の人々のために私財を惜しみなく使うことで知られていた。その評判を聞きつけて周瑜が部下数百人を引き連れて、魯粛に食糧の提供を求めたとき倉をまるごとひとつ気前よくふるまったという。このときから周瑜との交流がはじまった。孫策の時代にはいったん呉を離れていたが、孫権が後を継いだとき、周瑜は好機と見て魯粛をあらためて推薦する。それ以来、魯粛は呉を支える重要人物となる。周瑜は36歳の若さで夭逝するが、彼が後継者に指名したのは魯粛だった。
魯粛が頭角を現したのは赤壁の戦いの直前だ。北伐を終え、勢いにのる曹操は、劉表(りゅうひょう)の荊州、孫権の江東を攻めようとしている。曹操が荊州に攻め込むなり劉表は死去し、後継者の劉琮(りゅうそう)はすぐさま降伏する。荊州に客分として滞在していた劉備はすかさず逃亡する。この逃亡中の劉備に魯粛は接触し、攻めてくる曹操に対抗するため劉備と同盟関係を結んだのである。地元の名士たちが降伏に傾くなか、魯粛は諸葛亮を呉に招き、遠征中の周瑜を呼び寄せ、徹底抗戦の流れをつくりだすのである。曹操と戦うにあたり、魯粛が孫権に密かに進言した内容はこうだ。
「曹操は強く、漢はもはや復興できないので、江東を拠点に鼎足(ていそく/三方に対立すること)し、皇帝を名乗って天下の変化を待つべきである」
諸葛亮が提案した天下三分の計と似ているが、諸葛亮の提案は三国に分けながらも、最終的には劉備によって統一された漢王朝を復興する構想だった。これに対して魯粛のプランは漢王朝の復興は無理なので、国を三分割して孫権が呉の皇帝となり、状況を見ようというものだ。当時の呉は漢王朝に対する忠誠心が高く、これは異端の考えである。しかしながら現実を冷静に見据えた大局的なプランであり、孫権は魯粛のこうした構想力を高く評価した。赤壁の戦い後、劉備に荊州の南部を貸与したのは、あえて劉備に力をもたせバランサーとして利用しようと考えたからだ。このことを知った曹操は、魯粛が構想した戦略の大きさに驚いたという。
その後、劉備が益州を手に入れたとき、孫権は荊州の領地を返還することを要求する。しかし劉備は返還を渋り、荊州を治めていた関羽と魯粛による会見が行われる。
「荊州の領地は曹操に攻められて行き場のなくなった劉備に好意で貸し与えていたものである。益州を得たのちは呉に返してもらう約束だったが、領地を返そうとしないばかりか、さらに強奪しようとするのは人の上に立つ者のすることだろうか」
上:関羽肖像(Pen 2019年8月1日号 CCCメディアハウス イラスト:阿部伸二)
下:「絵本通俗三国志 6編 巻之3」より曹丕肖像(国立国会図書館蔵) |
関羽の臣下が「土地は徳のある者が所有するのだ」と発言したところ魯粛は一喝したという。劉備に対していろいろ世話を焼いてくれた魯粛の言葉だけに説得力があり、関羽は言い返すことができなかった。結果として荊州を東西に分け、それぞれ三郡を領地とすることで双方が合意した。
『三国志演義』では関羽が魯粛の非難を突き返したことになっているが、正史の『三国志』では、世の道理を説き、相手の非を咎め、自国の利益を堂々と主張する、毅然とした魯粛が描かれている。
帝位につく気はないといっていた孫権だが、魏の曹丕(そうひ)に続いて蜀でも劉備が皇帝を名乗る動きがあり、229年についに皇帝に即位する。魯粛の死後10年、彼の描いた未来図は現実となった。「彼はこうなることがわかっていたのだ」と孫権はあらためて魯粛に敬意を表したという。
自国の繁栄のためにあえて他国を生かし、好機をうかがう方策をとった魯粛。長期的な視野で呉の成長戦略を練っていたスケールの大きな人物といえる。現代のビジネス社会は先行きの見通しが難しく、つい目先の利益にとらわれがちになる。魯粛のように大局観をもって事業を構想することの重要性をあらためて思い起こさせてくれる。
劉備の蜀建国に大きく貢献した、法正
「絵本通俗三国志 巻9」より法正肖像(国立国会図書館蔵)
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蜀の参謀役というと諸葛亮の存在があまりに大きく、他の者を思い浮かべにくいが、あげるとしたら龐統(ほうとう)、もしくは法正(ほうせい)になるだろう。龐統はまだ表舞台に出る前に諸葛亮と並ぶ逸材として注目されていた。諸葛亮が眠れる龍を意味する臥龍(がりょう)と呼ばれたのに対して、鳳凰(ほうおう)のひな、鳳雛(ほうすう)と呼ばれた。
彼は荊州の統治に専念する諸葛亮の代わりに、劉備の参謀として益州の攻略に赴く。しかし、劉備が益州を手にする直前で命を落としてしまった。龐統の亡きあとを受け継ぎ、参謀役となったのが法正だった。
法正はもともと益州の劉璋(りゅうしょう)の臣下だったが、才能が認められず不遇の毎日を過ごしていた。領主としての資質に欠けると見られていた劉璋は世間の評判も悪く、法正ら臣下は英明な君主が主人となることを願っていた。そこで法正は盟友の張松(ちょうしょう)とともに、劉備を益州の領主として迎えることを画策する。益州を脅かしていた曹操や五斗米道(ごとべいどう)の攻撃に備える名目で、劉備を招き入れて益州を劉璋から奪うお膳立てをしたのである。経営能力のないトップを退陣させるためにクーデターを起こし、外部から経営者を招請したことになる。
この功績から法正は蜀軍太守、揚武将軍に任じられ、諸葛亮と並ぶ参謀役となった。法正は聖人君子のように尊敬された諸葛亮とはまったく対照的で、劉璋の時代に屈辱を受けた者に報復を行うなど、人間くさい一面がある。公正を重んじる人から見るとやや逸脱した行動もあったが、その智謀の切れ味は鋭く、何よりも劉備の信頼が厚かった。
漢中の支配を強く勧めたのも法正だ。漢中は漢王朝の発祥の地で、当時は五斗米道の張魯(ちょうろ)が占拠していたが、曹操が打ち破り、その統治は重臣である夏侯淵(かこうえん)、張郃(ちょうこう)らにまかせていた。法正は彼らに漢中を守り抜く力はなく、奪取することを提案する。彼の戦略のもと行われたのが「定軍山(ていぐんざん)の戦い」である。法正は老将の黄忠(こうちゅう)と組んで、次のような戦いを行った。
法正の戦略による定軍山の戦い
- ①魏の本陣がある定軍山の手前に劉備軍の本隊5万を出兵する。
- ②魏の張郃軍1万に対し、兵を10部隊に分けて夜襲をかける。
- ③定軍山の東側に構えていた張郃の陣を焼き払い攻撃する。
- ④夏侯淵は軍勢を二分し、半分を張郃の救援に向かわせた。
- ⑤張郃を攻撃すると見せかけ、半減した夏侯淵の本隊を集中攻撃する。
- ⑥夏侯淵の本陣、南方15里ほど離れた所の逆茂木(さかもぎ/防御用の柵)を焼き払う。
- ⑦夏侯淵はこの逆茂木の修復に400の兵を引き連れて自ら出向いた。
- ⑧黄忠ら騎馬軍数千人が高所で待機、夏侯淵軍に奇襲をかける。
- ⑨夏侯淵軍は囲まれ、逃げ場がなくなり壊滅する。
のちに自ら攻めてきた曹操も撃退する。一度も勝ったことのない曹操軍を相手に、劉備軍がはじめて勝利を収めたのである。この敗戦に曹操は衝撃を受ける。「ここまで入念な策を練ることは劉備にはできない。誰の策であるか」と尋ねたところ法正だという。「自分は天下の俊傑を集めたつもりだが、法正だけは手に入れられなかったのか」と語ったといわれる。この漢中を得たことを機に、劉備は漢中王を名乗り、法正は尚書令に任命される。
諸葛亮は軍師としても優れた能力をもっていたが、関羽や張飛といった猛将からは実戦があまり得意ではないという評価をされてきた。その一方で法正は曹操も舌を巻く練達した軍事の才能を見せた。蜀建国という重要な局面で、諸葛亮にやや不足していた部分を、法正がうまく補ったといえるだろう。彼は尚書令となった次の年、40代の半ばで病死する。もう少し長生きしていれば三国の勢力図が変わっていたかもしれない。
ビジネスにおいて大きなプロジェクトを成功させるうえでは、正攻法やきれいごとだけでは突破できない局面がある。そんなときこそ、智略に長けた人材が突破口を開いてくれる。郭嘉にしても、魯粛にしても、そして法正にしても、決してエリートではない。不遇の時代を乗り越え、自らの才能を生かせる場を求めて、道を切り拓いてきた人たちだ。単なる頭のよさだけではない、生きた知恵を身につけた参謀役こそ、いざというとき頼りになる。1700年以上も前の三国志の時代も、現代のビジネス社会も、真に有用な人材の本質は変わらないように思える。
第3回まとめ
職能:鋭い観察眼と分析力を武器にした戦略家。予見力に優れている。
評価:天才的なひらめきをもった献策を行う。誰も思いつかないプランを出してくる。アウトサイダー的な生き方を好む、常識にとらわれない自由人。
職能:構想力に加えて交渉力に優れている。外交家として極めて有能。
評価:誠実な人柄で面倒見がよく気前がよい。常識にとらわれない大胆でスケールの大きな発想をする。温和に見えて要所では激しい一面を見せる。
職能:智謀に富んだ策を練る軍師。尚書令を務めるなど行政能力も高い。
評価:軍師としても参謀としても的確な進言を行う。怨恨のある相手に報復をするなどダークな一面があるが、その才能は諸葛亮からも一目置かれる。
前編に登場した名参謀たちとはまた違った魅力をもった個性派の3人。安易な逃げを許さないチャレンジ精神にあふれた仕事ぶりは、知恵の力をあらためて認識させてくれる。
クイズの解答はこちら!
- ①袁紹の最盛期に第一の参謀役といわれた人の名前は?
→沮授(そじゅ) - ②曹操が新設された役職に任命された郭嘉。その役職名は?
→軍師祭酒(ぐんしさいしゅ) - ③魯粛と比較された春秋戦国時代の縦横家の2人は誰と誰?
→張儀(ちょうぎ)と蘇秦(そしん) - ④臥竜(がりょう)の諸葛亮に対し、鳳雛(ほうすう)と呼ばれたのは誰?
→龐統(ほうとう) - ⑤劉備が法正を軍師とし、魏の夏侯淵(かこうえん)を破った戦いのことを何という?
→定軍山(ていぐんざん)の戦い
次のページでは、三国志「参謀役」診断テストを用意しています。
諸葛亮、周瑜・・・あなたはどのタイプ?
あなたはどのタイプ?
三国志「名参謀」診断テスト
タイプ別紹介
多才なマルチプレーヤー
正義感が強く信頼度は抜群。
競合の裏をかく企画が得意。
ときどき奇策も飛び出す。
競合に果敢に挑戦。熱血漢に
見えてスマートな一面も。
組織に染まらない唯我独尊型。
頭の切れ味は天下一品。
交渉上手。目先の利益に
とらわれない大局観の持ち主。
現場に強い指揮官型。不利な
状況をくつがえす底力あり。
法正肖像(国立国会図書館蔵「絵本通俗三国志 巻9」より引用)