障がいのある高校生との出会いをきっかけに、指1本でメロディを弾くと自動で伴奏がつく「だれでもピアノ®」を開発した横浜みなとみらいホール館長の新井鷗子氏。音楽とテクノロジーの融合によりインクルーシブな社会を実現したいという新井氏に、現在進めている取り組みや理想とする未来像などを聞いた。
新井 鷗子
横浜みなとみらいホール
館長
あらい・おーこ
東京藝術大学音楽学部楽理科および作曲科卒業。「題名のない音楽会」「東急ジルベスターコンサート」などの番組やコンサートの構成を数多く担当。 NHK教育番組の構成で国際エミー賞入選。東京藝術大学客員教授、洗足学園音楽大学客員教授、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。2020年より横浜みなとみらいホール館長。
-新井さんが開発に携わった「だれでもピアノ®」とは、どういうものですか。
「だれでもピアノ®」を一言で言うと、自動伴奏機能つきピアノです。片手の指1本でメロディを弾くと、人の演奏に合わせて自動で伴奏とペダルが追従し、搭載されたAIによって初心者でもプロのピアニストのように豪華な演奏を再現できます。
AIは人が弾いたメロディを瞬時に解析し、登録してある楽曲情報と照合して、演奏のテンポやタイミングに合わせて伴奏とペダルが追従するシステムになっています。人間がゆっくり弾けば遅く、速く弾けば速く、強く弾けば強く、弱く弾けば弱く、というように、AIが人間の演奏に合わせてくれるのです。
-だれでもピアノ®はどのような経緯で開発されたのですか。
私は「障がいから学ぶ」をコンセプトに、2012年から東京藝術大学で「インクルーシブ(包摂、あらゆる人が排除されないこと)アーツ」に取り組んできました。その研究活動が、15年に立ち上がった文部科学省とJST(国立研究開発法人 科学技術振興機構)による産学官連携プロジェクト「東京藝術大学COI(センター・オブ・イノベーション)拠点」の研究グループの1つに選ばれたことがきっかけとなりました。
当初は、障がいがある人が演奏しやすい楽器を開発するつもりでしたが、重度の肢体不自由の生徒たちが通う特別支援学校にリサーチに行き、1人の女子高校生と出会ったことで考えがガラリと変わりました。その高校生は脳性麻痺のために車椅子に乗り、なんとか動かせる右手の指1本で、ショパンの「ノクターン第2番」のメロディーを弾いていたのです。隣には音楽の先生が座り、鍵盤に顔を近づけて1音ずつ弾く彼女に覆いかぶさるように手足を伸ばして伴奏をつけてペダルを踏んでいました。
その光景を見た時、テクノロジーの力を使って彼女が1人で演奏できる方法はないかと思い立ち、その翌日にはヤマハに電話をして相談していました。
-ヤマハにはどのように要望したのですか。
ショパンのノクターンのメロディは、歌うように音を途切れさせずに連ねるレガート奏法が特徴なのですが、指1本ではできません。その音の流れをダンパーペダルを通常より早いタイミングで踏むことで再現してほしいとお願いして、開発されたのがペダルの自動制御システムです。ただ、システムは機械なのでオンとオフしかなく、ペダルを踏むたびに「バコン!」という音が出てしまいます。人間の足のようにふわっと踏んで、ふわっと外すのが大変でした。伴奏については、すでにヤマハが実用化していた自動演奏ピアノの技術を拡張して、メロディーを滑らかにするための技術開発に注力してもらいました。
「だれでもピアノ®」は、次に弾く音を知らせてくれるので、音符が読めなくても演奏可能。
-完成した「だれでもピアノ®」はどのように広まっていったのですか。
17年に行われた渋谷区の音楽イベントで、初めて多くの人に触れてもらいました。その時に用意したのは「きらきら星」と「ふるさと」の2曲でした。その後、全国で「だれでもピアノ®」の体験会を開き、これまでに5000人近くに体験してもらい、伴奏データの曲数も大幅に増えました。
21年にタブレット端末用の「だれでもピアノ®」アプリを限定公開してから、徐々に支援学校や病院、介護施設で導入されています。25年には無料アプリをリリースしました。
-現在、高齢者向けに「だれでもピアノ®」のレッスンを行っているそうですね。
もともとは東京藝術大学の研究の1つとして行ってきたものです。23年度からは横浜みなとみらいホールの主催で高齢者を対象に「だれでもピアノ®」を活用したレッスンを開催し、心身の健康に与える効果を研究しています。65歳以上のピアノ未経験者・初心者15人にレッスンを行い、血圧や心拍数などの計測とアンケート調査結果を名古屋大学医学系研究科が分析するという、産学連携での取り組みです。
ピアノのレッスンはマンツーマンの個人レッスンが一般的ですが、昨年度からグループレッスンを取り入れたところ、個人レッスンより上達が早くなったことには驚きました。参加した高齢者には「自分にできるわけがない」「この年になって人前で恥をかきたくない」という気持ちがあったようですが、「だれでもピアノ®」は指1本で素晴らしい演奏が再現されるので恥ずかしくなく、それでいてきちんと上達します。グループの仲間との交流を通して、表情が明るくなり、人と接することでおしゃれに気を配るなど、ウェルビーイングの向上は私たち講師から見ても明らかでした。
指1本でメロディを奏でると、伴奏とペダルが自動で追従して本格的な演奏になる。
-計測結果はどうでしたか。
全6回のレッスンを重ねるに従って「幸せな気分」が右肩上がりで上昇していき、最後の成果発表会でピークを迎えました。ところが、発表会後に急降下してしまいます。これは発表会が終わって「ロス」に陥ってしまったためで、ロスを感じさせないことは今後の課題でもあります。
-ピアノを弾くことには、そんなにも効果があるのですね。
ピアノだからこそ、こうした効果が得られたのだと思います。というのも、ピアノは自分で持ち運べない楽器で、ピアノがある場所に人間が移動していかなければいけません。バイオリンやリコーダーのように手軽に運べるマイ楽器は、1人で練習できますが、動かせないピアノは、人が集まってきてコミュニティをつくることができます。単に演奏するだけでなく、人と関わるきっかけになることがとても大切だと気づかせてもらいました。
この研究により心身におよぼす良い影響も分かってきたので、将来的に「だれでもピアノ®」を福祉・医療分野へ展開したいという野望をもっています。ピアノを弾くことがリハビリになるならば弾いている本人も楽しいですし、見ている人も感動できます。拍手をもらえるリハビリテーション機器などはありませんが、「だれでもピアノ®」であれば、音楽という感動を伴うリハビリができると思うのです。
-横浜みなとみらいホール館長として、大切にしていることはなんですか。
このホールを中心として、インクルージョン(社会包摂)の取り組みを広げようとしています。「だれでもピアノ®」の他、視覚障がいの人たちと暗闇の中で音楽を協創する「ミュージック・イン・ザ・ダーク®」といったコンサートを開催し、誰もが楽しめるものとして社会に根づかせたいと考えています。
また、次世代育成にも力を入れています。その目玉ともいえるのが、中学生たちがプロデューサーとなって企画運営を行う「こどもの日コンサート」です。プロデューサーとして活動する中学生たちは、数カ月かけてコンサート運営のノウハウを学び、収支の予算表や企画書の作成、曲目解説、ホールの案内係もすべて担います。できないところは大人がサポートしようと思っていたのですが、中学生だけでしっかりできてしまうので、私たちの方が付いていく感じです(笑)。
-地域に根ざした様々な活動をしているのですね。
素晴らしい音楽を提供しながら、このホールが多世代による文化交流の拠点となり、それが横浜の文化の底上げにつながることが理想です。中学生プロデューサーの試みも、全員で協力して良いものをつくることの体験を通じて、より良い社会をつくる大人になるための学びの場として実施しています。
-アートとテクノロジーによる協創は今後どう進むでしょうか。
クラシック音楽はもっともテクノロジーから縁遠い世界だといわれていましたが、産学連携や時代の流れによってそれも変わってきました。例えば、従来プロをめざす演奏者は1日に何時間も練習し指や手首を痛めがちでした。しかし、AIで指の動きを分析する機械ができれば、手指の負担を軽減しながら練習することが可能になるでしょう。そのようにテクノロジーと音楽の融合はさらに進むでしょうし、そこから様々なイノベーションが生まれるはずです。
-将来、どのような社会をつくっていきたいですか。
芸術や音楽を通じて、1人ひとりと向き合うことからインクルーシブが始まるという考えが広がってほしいと考えています。1人の高校生の夢を叶えるために開発した「だれでもピアノ®」がユニバーサルな楽器になったように、まずは身近な1人のためにという意識が広まることで、共生社会がつくられていくことを願っています。
「インクルーシブアーツ」というテーマで研究をする中で「だれでもピアノ®」につながる出会いを経験したという横浜みなとみらいホール館長の新井鷗子氏は、障がいや世代を超えた音楽体験を提供し続けています。「だれでもピアノ®」がウェルビーイング向上にも役立つと明らかになったことから、今後は福祉・医療の分野にも積極的に取り組んでいきたいと話してくれました。