国際自然保護連合(IUCN)によると、現在、世界で45000種超の生物が絶滅の危機に瀕しているという。そんな中、細胞を生きた状態で凍結し、未来に残そうという取り組みが日本国内で進んでいる。国立環境研究所の「タイムカプセル化事業」だ。事業の舵を取る大沼学氏に、事業の意義と種の保全への想いを聞いた。
大沼 学
国立環境研究所 生物多様性領域 生物多様性資源保全研究推進室 室長
おおぬま・まなぶ
獣医学博士。酪農学園大学獣医学科卒業後、知床国立公園で野生動物の調査研究に従事。1993~99年、マレーシアの野生動物リハビリセンターに獣医師として勤務。2004年より国立環境研究所でタイムカプセル化事業に参画。2024年より現職。
―国立環境研究所で大沼さんたちが進めている「タイムカプセル化事業」とは、どのようなものでしょうか。
環境省のレッドリスト(絶滅の恐れがある野生生物のリスト)に掲載されている種を対象に、細胞や臓器を採取して培養し、遺伝資源として凍結保存する事業です。
ここ環境試料タイムカプセル棟には、交通事故などで死亡した生物が全国の自然保護団体や動物園から送られてきます。病理解剖をして病原体に感染していないことが分かったら、その個体から皮膚と筋肉の組織を採取し、専用の容器で培養します。細胞が一定の量まで増えたら、タンクに入れてマイナス160~170度で凍結保存するという流れです。
「環境試料タイムカプセル」には、絶滅危惧種の個体から採取された細胞がマイナス160度以下で冷凍保存されている
―死亡した個体の細胞が増えるのですか。
増えます。不思議ですよね。個体の死と、細胞の死は違うということです。個体が死亡した直後の方が培養しやすいのは確かですが、以前実験した際には死後3週間まで培養することができました。
―せっかく増やしても、凍結したら死んでしまうのではないですか?
いえ、凍結保存しても細胞は生きているのです。理論上は100年後まで生き続けます。細胞を保護する化学物質を混ぜてマイナス160度以下で凍らせると、細胞の活動が一切止まります。それを取り出して解凍し、化学物質を洗い流すと、細胞はまた活動し始めるのです。すでに、凍結保存された細胞を使った研究も進んでいます。
―まさにタイムカプセルですね。ここで保存されている絶滅危惧種の生物の細胞はどれくらいあるのでしょうか。
この施設は2004年から稼働し、現在は国内の絶滅危惧種385種のうち127種・約4000個体の細胞を保存しています。トキやカンムリワシ、ツシマヤマネコなどの培養細胞もあります。
棟内には、1万4000本のチューブを保存できる19基のタンクがあります。環境汚染の状態を知るための海底堆積物や二枚貝なども保存していて、絶滅危惧種と合わせてタンクの約7割が埋まっている状況にあります。
冷凍保存されているヤンバルクイナの死亡個体
死亡した動物から採取した組織
細胞を培養する培養器
顕微鏡で細胞を観察
―大沼さんは現在では事業を統括するお立場ですが、もとは研究員として解剖や培養を手がけていたと伺いました。その前は臨床獣医師としてマレーシアで活動されていたそうですね。
中学生のころから海外で働いてみたいと思っていました。大学時代には野生動物に関わる仕事に携わりたいと思うようになりました。大学を出て1年間、知床で野生動物の調査研究に携わり、1993年から青年海外協力隊の一員として、マレーシアのボルネオ島サラワク州にある野生動物のリハビリセンターに赴任しました。当局が押収する、違法に飼育・売買されていたオランウータンなどの絶滅危惧種を治療し、森に帰す仕事です。協力隊員として3年働き、州から要請を受け、州の職員としてさらに3年務めました。
センターにいると、手当てが間に合わずに死んでしまう動物を数多く目にします。それを活かす方法はないかと考えるようになりました。
―今の事業に通じますね。
はい。そこでも凍結保存を試したのですが、当時のマレーシアは電気の供給が不安定で、凍結させても停電するとすぐに温度が上がって腐敗してしまいました。そんな時、アメリカのサンディエゴ動物園で野生動物の細胞を凍結保存する大掛かりな取り組みが始まったと聞き、いつか日本でそうした事業が始まれば参加したいと思うようになりました。
帰国後、北海道大学大学院で学位を取得し、京都大学霊長類研究所に在籍していた時、ここの事業が始まると聞いてすぐ手を挙げました。
―野生動物に関わり続けるモチベーションは何でしょうか。
先ほどお話ししたマレーシアでの体験があったからです。数少ない貴重な動物が乱獲され、市場で売られたり、劣悪な環境で飼育されたりしているのです。それを目の当たりにして、今後自分がするべきことは絶滅危惧種の保全だと思いました。
保全にもいくつか方法があります。野生生物の生息域内の環境を守る方法もあるし、動物園で繁殖を試みる方法もあります。その中で私は、自分の専門性を活かせる遺伝資源保全を行っているというわけです。
―そもそも絶滅危惧種を未来に残すことはなぜ大切なのか、改めて教えてください。
生物多様性を守ることになるからです。私たちはこの取り組みを、生物多様性保全の一環だと考えています。人類は、生物多様性がもたらす様々な恩恵を受けながら生活しています。
先般の新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)で、その重要性を理解した人も多いのではないでしょうか。新型コロナウイルスは、もともとは野生動物が持っていたウイルスですが、森林などの生態系が開発され、生物多様性が損なわれたことで人と宿主との間に存在していた生き物がいなくなり、人にウイルスが到達して感染につながったと考えられています。
絶滅危惧種の遺伝資源の保存は、生物多様性を守り、ひいては人間の健康を守ることにつながります。
―細胞を保存する事業は、未来の人類を守ることにもつながるのですね。
"生きた細胞"だという点が重要です。例えば、この棟にオガサワラシジミという蝶の細胞が保存されています。これは現在では野外観察されていません。繁殖のための飼育もされていましたが、2020年に最後の個体が死亡しました。まだどこかで生息していると思いたいのですが、もしかしたらここにある細胞が、地球上にオガサワラシジミが生息していた唯一の生きた証になるかもしれないのです。
何より、いつか将来的に細胞を使って絶滅危惧種を守れるような技術が確立した時に、細胞がなければ意味がありません。生きた細胞を残すことは、大きな意義があると思っています。
―なるほど。とはいえ、生物多様性は気候変動に比べ、重要性が理解されにくいといわれます。
確かにそうです。生物多様性の問題は、気候変動のように影響を実感しにくいですからね。タイムカプセル化事業も、単に個体から細胞を集めているだけだと誤解されます。
しかし、2022年度に改訂された「生物多様性国家戦略2023-2030」では、予算はつけられていないものの、絶滅危惧種の細胞の凍結保存に関する数値目標が設定されました。他の研究機関との共同で凍結細胞や培養細胞を使った研究の成果が表れ始めています。今後、遺伝資源保全の意義についての理解が広まることを期待しています。
―2023年にはクラウドファンディングで新しいタイムカプセルの資金を募り、800人近い賛同者から調達できましたね。
東日本大震災の発災時、研究所が停電したことで、凍結保存施設が危険な状態に陥ったことがありました。それを踏まえて、リスク回避のために保存場所を分散させることが議論されましたが、長らく対応が先送りされていました。そんな中でクラウドファンディングという手法を知り、北海道に凍結保存施設を購入し5年間維持するための予算として、700万円を募ろうということになったわけです。
ありがたいことに、目標を上回る922万円が集まりました。順次、試料を北海道に送り出しているところです。
―今後の目標をお聞かせください。
やはり国内の絶滅危惧種385種を全種保存したいですね。国際自然保護連合(IUCN)をはじめとした海外の団体とも連携し、国内だけでなく国外の遺伝資源も保存したい。生息地で野生動物たちが守られ、生息域外で細胞も保存されているという状態をつくり、生物多様性を未来に残していきたいです。
野生のトキは絶滅しましたが、細胞は環境研究所のタンクの中で眠っています。北海道ではオジロワシの細胞の凍結保存も予定されているそうです。いつか技術が確立して、トキやオジロワシの遺伝子を受け継ぐ鳥が空を飛び交う日がくるかもしれません。研究所内に並んだタンクは多様な生き物と人間が共存する未来を待つ、まさにタイムカプセルといえそうです。