※本記事は2021年10月に掲載されたものです
家業を手伝った時に「いい仕事だな」と実感
東京都品川区大崎の銭湯・金春湯の経営者とフリーランスのITエンジニアの2つの肩書を持つ。医療・光学機器メーカーでITエンジニアとして約10年間勤務し、2019年7月に退職、家業である金春湯を継いだ。金春湯は1950年創業の老舗で、70年代から角屋家が経営を引き継ぐ。独特なストーブを使ったサウナが有名。 |
※黒字= 角屋文隆 氏
──金春湯を継ぐことになるまでにどんな経緯があったのでしょう。
以前は医療・光学機器メーカーでエンジニアをしていたのですが、祖母と両親が切り盛りしていた金春湯に、母がけがで入院するというアクシデントが起きました。2017年夏のことです。残された2人では手が回らなくなり、私も平日の夜や土日に金春湯を手伝うことにしました。
──それまでは金春湯の仕事には関わってこなかったのですね。
エンジニアとして会社勤めをしていて、銭湯を継ぎなさいと言われたことは一度もありませんでしたし、銭湯とはほとんど関わりがなかったんです。なので銭湯を継ごうという意識も全くありませんでした。
ところが、母の入院をきっかけに手伝ってみるといろいろと感じることがあり、銭湯に興味がどんどん湧いてきました。
──どのようなところに面白さを感じましたか。
エンジニアとしての視点では、普通の会社なら当たり前のことができていないなと感じたことがありました。例えば、お客様の情報を取っていない、など。もちろん、一日の終わりに売り上げは締めますが、男性が何人で女性が何人といった基本的な情報すら分からなかったのです。これは改善できるなと感じました。
違う側面では、お客様と直接出会うことによる気づきがありました。エンジニア時代もお客様の気持ちを考えなさいと言われて仕事をしていましたが、なかなかお客様に直接お目にかかることはありませんでした。しかし、銭湯の番台に入ると、自然にお客様と触れ合うことになります。
場所柄、会社帰りに入浴やサウナ浴をされていかれるお客様が多く、疲れた顔で来店された方が生き生きとした顔で帰っていくのを目の当たりにしました。銭湯やサウナが癒やしの場になることを実感した瞬間でした。これはいい仕事だなとだんだん引き込まれていきました。
知られざる金春湯の魅力をWEBサイトとSNSで拡散
──銭湯の手伝いを始めてから、家業を継ぐ気持ちはすぐに固まったのですか。
いえ、すぐに継ごうという考えには至りませんでした。銭湯は斜陽産業の代表格のような存在ですし、金春湯も今後のことを考えると心配になるぐらいの来客数だったのです。一方で、いい仕事だなと実感したこともあり、会社員を続けながらお客様を増やす方法を考えました。
そうして2018年の年明けに金春湯のWEBサイトを立ち上げ、SNSへの投稿も始めました。それまで金春湯は近所の人しか知らない銭湯で、主なお客様は高齢の常連さんという状況でしたから、インターネットの効果に期待しました。
独特なストーブで、約90℃と高温ながらしっとり感を
楽しめるサウナ |
実は銭湯に興味を持ち始めてから、銭湯の人気店をいくつか訪ねてみたところ、お客様が多く入っていたんです。経営者もお客様も若い人が多く、これならば金春湯も"いける"のではないかと思いました。今ほどではないですがサウナブームが始まりかけていて、イベントが開催されたり、「サウナイキタイ」というサウナ検索サイトを同世代が運営したりするようになっていました。同世代が同業者として活躍しているのを見て、銭湯への思いが募っていきました。
──銭湯やサウナが見直される要因はどう分析していますか。
一つは強制的なデジタルデトックスの場であることでしょう。今の時代、スマートフォンを持たない1時間、2時間という時間はとても貴重です。また、お風呂が好きな人、サウナが好きな人という、同趣味の人が近くにいるという、コミュニケーションが取れている感覚が心地よいことも挙げられます。
まねするのではなく独自の魅力を発信
上/角屋氏が着用しているものも含めて、オリジナル
デザインのTシャツなどを販売 中/オリジナル手ぬぐい、手作りのサウナハットなど、楽しいグッズが並ぶ 下/風呂上がりの一杯は厳選したクラフトビールで。 サウナと並ぶ金春湯の魅力の一つ |
──会社を辞めて金春湯の経営に携わるようになったのは何がきっかけでしたか。
様々な施策による来客増加の目標を達成したことが直接的なきっかけです。2019年夏のことでした。
それまで認知度を上げるため、オリジナルグッズを作って販売したり、イベントに出展したり、土日には休憩室で主催イベントを開催したりしました。「エンジニア銭湯」もその一つで、番台を舞台に技術的なプレゼンを発表し、その後にお風呂やサウナに入りながら懇談するというイベントです。面白いイベントだと興味を持ってもらい、回数を重ねて実施することになりました。こうした施策が来客増加につながったのだと思います。
──そうした中で、金春湯の"売り"をどのように定めましたか。
いろいろな銭湯を視察した中で、魅力はそれぞれ異なると感じました。だからこそどこかのまねをするのではなく、独自の魅力を発信する必要性を感じました。
金春湯の最大の魅力はサウナです。サウナブームの到来に加えて、独特なストーブを使っていることが評判になっていました。通常のサウナはガスや電気で暖めますが、金春湯では水蒸気を通したパイプを使ったストーブで暖めます。そのため乾燥しにくく、お客様にも好評でした。お客様がSNSで「金春湯のサウナはいいよ」と発信してくれることも多くなり、そうした口コミ情報を集めて金春湯のSNSでも発信できるようになりました。
もう一つはクラフトビールです。イベントを開催する中で評判が良かったのがビールでした。ラベルにこだわっている醸造所が多く、お客様がラベルを写真に撮ってSNSにアップしてくれるのです。実は銭湯は中で写真が撮れないためSNSと相性が悪いんですよ。その点、クラフトビールは情報感度が高い人に人気があり、SNSに投稿してもらいやすいのです。
エンジニアだからできる銭湯や地域のデジタル変革
──エンジニアとしてのシステム面での改善や取り組みを教えてください。
まず来客数のカウントと経営情報を併せて表示できるシステムを1週間ほどかけて作りました。タブレットで簡単に入力や表示ができるものです。現場感覚で女性よりも男性が多いとは思っていましたが、データを見てみると2倍以上だったとか、来客が多いと思っていた土曜日が平日とあまり変わらないなど、体感とは異なる事実が可視化されてきました。
こうした数値を見ながら、例えば女性客への誘致をして来客数を増やしていこう、などと思っています。今まであまり数字を気にしなかった両親のモチベーションも高まり、イベント開催などの来客数の伸びをグラフで見て、来客増加への取り組みを一緒に頑張ってくれています。
来客数は私が関わるようになる前の2倍を超え、WEBやSNS、イベントなどを通じた来客増加の取り組みは着実に効果が上がっています。
──コロナ禍の影響はありましたか。
最初の緊急事態宣言の最中には銭湯は営業しましたが、サウナは休業せざるを得ませんでした。その後、宣言が解除されてサウナを再開しようとした時には、人数制限が必要になりました。そのため、満員の時にはお客様に待ってもらわなければなりません。
これは待ち時間があるかどうかを通知するシステムが必要だと感じました。SNSでも「サウナの待ち情報が知りたい」という書き込みもあり、一念発起して一晩でシステムを作り上げました。今は金春湯のWEBでサウナの入浴状況がひと目で分かるようになり、待ち時間がなくなってお客様にも好評です。
──フリーエンジニアとしての活動はされているのですか。
金春湯の経営に関わるようになって、金春湯だけではなく地域や業界のデジタル化を後押しする役割も果たしています。浴場組合や近隣の銭湯のWEBを作ったり、商店街でIT系の困りごとがあると解決したりもしています。その他にも企業のシステム開発を受託しています。
身についたPDCA(Plan→Do→Check→Act)の考え方は銭湯経営にも役立っています。何かを計画して実行したら、振り返って次に活かすサイクルです。例えばサウナの温度を変えてSNSで発信すると、お客様がよかったといった反応をくださいます。SNSを通して、試して反応を見てという繰り返しで、より良いサービスが提供できるようになっているのです。
銭湯経営で実践するPDCAサイクル
プログラマーとして身についたPDCAサイクルを銭湯経営に役立てる。デジタル技術を活用しながら、地道に計画(P)→実行(D)→評価(C)→改善(A)のサイクルを回している。 |
──今後の金春湯の変革や、地域、業界への貢献についてどうお考えですか。
金春湯ではツイッターを活用していますが、インスタグラムはまだ活用しきれていません。今後の課題として、グーグルマップの口コミやツイッター、インスタグラムへの金春湯に関する投稿をまとめて見られるツールを作る必要があると考えています。こうしたツールは、金春湯だけではなく他のお店でも活用してもらえるでしょう。
銭湯やサウナは、生活の中での小休止の役割を果たせると思っています。生活の中で、銭湯に寄って、サウナに入って、リフレッシュしてもらえたらいいなと思います。SNSなどのデジタル技術を活用して地域での認知度を高め、若い人たちが来やすいようにハードルを下げることで、銭湯の再評価が進むのではないでしょうか。
人懐っこい笑顔が印象的な角屋さん。番台に入っていても、この人がITエンジニアだと感じる人はあまりいないと思います。銭湯のデジタル変革も、一気に大きな変化をもたらすのではなく、必要なところ、できるところから、少しずつゆっくりと進めています。その歩みのほどよい塩梅が角屋さんの穏やかな表情からも見えてきて、銭湯という時代を超えた文化と現代のデジタル技術の融合を自然体で進めていることを感じられました。