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銀師(しろがねし)

上川 宗照・上川 宗達

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かつて、日本は世界有数の銀産出国であった。江戸時代になって銀が江戸に集められたことで「銀器」と呼ばれる工芸が生まれ、その技が現在に引き継がれている。東京・台東区の上川家は、親子5人でその伝統工芸に取り組み続けている。

※本記事は2020年1月に掲載されたものです

生活の中で使われてこそ価値が生まれる

上川宗照(かみかわ・そうしょう)・上川宗達(かみかわ・そうたつ)プロフィール

銀師(しろがねし)
上川宗照(かみかわ・そうしょう) 1945年生まれ。父である初代上川宗照に師事。77年に2代目を継承する。これまで黄綬褒章や卓越技能章などを受章。4人の子どもたちとともに、伝統の技を現代へ伝えるべく日々精励を重ねている。

上川宗達(かみかわ・そうたつ)
1980年生まれ。98年から父である2代目上川宗照に師事。2002年に重要無形文化財保持者(人間国宝)である奥山峰石氏に師事修業。11年、経済産業大臣指定伝統的工芸品東京銀器伝統工芸士に認定される。4人兄弟の3男。

徳川家康が貨幣づくりの職人の組合である「小判座」を設置したのは、江戸開府に先立つ1595年のことである。小判座は後に金座となり、金貨の製造を一手に担うこととなった。さらに1601年には銀貨をつくる銀座が、1636年には銅銭をつくる銭座が設けられた。

江戸時代の日本は世界でも珍しい3つの貨幣が流通する国であった。これは、かつての日本に鉱物資源が非常に豊富であったことを意味する。特に銀の産出量は世界有数で、16世紀から17世紀には世界の銀の生産量のおよそ3分の1を日本産が占めたともいわれている。家康は日本中の金山や銀山を幕府の天領として管理下に置き、経済をコントロールした。

最初に銀座が設けられたのは伏見で、後、京都、江戸、大坂(現・大阪)、長崎の4カ所となり、最終的には江戸の1カ所に集約された。現在の東京に銀座の地名が残るのはそのためである。銀座が江戸のみとなったことで、全国の銀、および銀を扱う職人も江戸に集まることになった。その職人たちがつくった工芸品が、現在の銀器の始まりである。

銀器づくりの職人は「銀師(しろがねし)」と呼ばれる。1690年に編纂(へんさん)された江戸の職業図鑑である『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』には、銀師が「諸(もろもろ)の金物これをつくる」と図入りで紹介されている。「諸」には、各種器の他、簪(かんざし)、根付(ねつけ)、財布、煙管(きせる)なども含まれていたようだ。

銀器づくりは「熱してはたたく」を繰り返す。たたいてへこませる箇所には、ペンでガイドとなるラインを描いておく
銀器づくりは「熱してはたたく」を繰り返す。たたいてへこませる箇所には、ペンでガイドとなるラインを描いておく

東京・台東区で銀器づくりを続ける2代目上川宗照氏は、江戸末期の銀師、平田禅之丞の流れを組む銀器の職人である。平田家九代目の宗道の下で内弟子として修業したのが宗照の父である初代宗照であった。その後平田家の血筋は絶えたため、初代宗照がすなわち平田派の10代目となった。従って現在の宗照氏は、江戸から数えて11代目ということになる。

「子どもの頃から父親の仕事を傍らで見ていて、16歳くらいで職人をめざしました」と宗照氏は振り返る。

「しかし、見ているのと実際に自分の手でつくるのとでは大違いです。頭でイメージしたものと手の動きが一致するまで10年はかかりました。しかし、それで一人前ということはありません。自分がつくったものでお金がいただけるようになって、職人は初めて一人前と見なされます」

銀器は作品ではなく実用品である。工芸的要素もむろんあるが、あくまでも使い手の生活の中で日々使われてこそ価値が生まれる。そのような伝統工芸品の価値を民藝運動家の柳宗悦は「用の美」と呼んだ。「用の美」は職人の自己満足からは生まれない。使い手が求めるものをつくり、それを生活の一部としてもらうところに職人の腕が発揮される。

繰り返したたくことで強く丈夫になる

理想の形に近づけるために何度も金づちでたたく。美しい曲面に仕上げるには熟練の技が求められる
理想の形に近づけるために何度も金づちでたたく。美しい曲面に仕上げるには熟練の技が求められる

金属工芸のつくり方は大きく3つに分けられる。すなわち、鋳金(ちゅうきん)、彫金(ちょうきん)、鍛金(たんきん)である。鋳金は溶かした金属を型に流し込むいわゆる鋳造で、鉄器などの鋳物がその代表的なものだ。彫金は鏨(たがね)で金属を彫る方法。主に装飾品などをつくる際に用いられる。鍛金は、金属を繰り返したたいて鍛錬する刀づくりの伝統に属するもので、銀器は主にこの方法でつくられる。

「たたくことで粒子が詰まるので、鉄器などよりも薄くて丈夫な器ができます。鉄器は落とせば割れますが、銀器はへこむだけです。へこんだところを直せば、いつまでも使い続けられます」

かつてはインゴット(金属の塊)の状態で仕入れてカットして使っていたが、現在は板状にされた銀を購入し、それをたたいて様々な形に成形している。コップなどの器は基本的に一体成形で、継ぎ目は一切ない。ヤカンのような複雑な形状のものは、口などの部品を別途つくって、銀に真鍮(しんちゅう)を混ぜた金属を溶かして本体に接着させる。これを「蠟(ろう)づけ」と呼ぶ。

銀の特徴はその加工性にある。たたいて伸ばしたり、曲げたり、模様を付けたりといった作業が比較的やりやすく、火に入れると柔らかくなり、磨けば美しい光沢が生まれる。非常に長持ちするのも銀の特徴だ。経年によって表面が黒ずむが、磨けば元に戻り、鉄や銅のように錆びることもない。

人気を集めているアイスクリーム用スプーン。上の持ち手にゴザ目をあしらったものが宗照氏作、下の凹凸を施したものが宗達氏作だ
人気を集めているアイスクリーム用スプーン。上の持ち手にゴザ目をあしらったものが宗照氏作、下の凹凸を施したものが宗達氏作だ

近年特に注目されているのが、銀がもつ熱伝導率の高さである。地球上の金属の中で最も高い熱伝導率を誇る銀でつくった道具には、それを持つ人の体温が伝わりやすいという性質がある。その特性を活かした商品がアイススプーンだ。冷えて固まったカップアイスに銀のスプーンを刺せば、手の温度によってアイスが適度に溶けてすくいやすくなる。テレビ番組などで紹介されたこともあり、若者を中心に人気を集めているという。

「伝統工芸といえども、時代に合ったものをつくらなければ残ってはいきません。今の時代に求められるものを、自分なりの工夫を加えながら、心を込めてつくること。それがすべてだと思っています」

「残す」「加える」「省く」が伝統の3つの要素

上/宗照氏作のコップ。竹やイチョウの葉など自然の風物をモチーフに、独自の味わいを表現している 下/宗達氏作のコップ。曲面と平面の組み合わせや全体のフォルムなどに遊び心があるのが宗達氏の銀器の特徴だ
上/宗照氏作のコップ。竹やイチョウの葉など自然の風物をモチーフに、独自の味わいを表現している
下/宗達氏作のコップ。曲面と平面の組み合わせや全体のフォルムなどに遊び心があるのが宗達氏の銀器の特徴だ

宗照氏には4人の子どもがいる。長男の宗伯(そうはく)氏、長女の宗智(そうち)氏、次男の宗光(そうこう)氏、そして三男の宗達氏である。その全員が父に続く銀師の道を歩んでいる。

「東京銀器の職人の数は現在おそらく30人くらいだと思いますが、子どもたち全員が跡を継いでくれているのは、うち以外にはありません」

宗照氏はそう誇らしげに話す。末っ子に当たる宗達氏は現在39歳。父と同様、子どもの頃から銀器づくりに接し、小学校の卒業文集に「銀器職人になりたい」と書いた。

「この道に入って20年になりますが、技術の習得には果てがないと感じています。勉強すべきことは山ほどあります」

銀器はすべて手づくりなので、全く同じものは2つとしてない。同じ器をつくるにしても、それぞれの職人の個性がおのずと出る。技の水準を保ちながら、個性をどのように表現するか。日々そんな問いを繰り返しながら、宗達氏は銀をたたく。

「銀器には価格があり、納期があります。手をかけようと思えば、何カ月でも1つの器に向かい合うことができますが、価格や納期との兼ね合いでどこかで完成としなければなりません。その見極めも難しいことの一つです」

父の下で本格的に修業を始めたのは高校を卒業してからだ。祖父や父と同じ道を歩むことに躊躇はなかったのだろうか。

「銀の世界はものすごく広いんですよ。コップ一つつくるにも無数の方法があって、それを自分で選んでいくことができます。だから、窮屈に感じることは全くありません。やれること、やりたいことはたくさんあります」

宗照氏作の銀瓶。鍛金と彫金の2技法によって仕上げられる。宗照氏が手がける銀器の中でも特に人気の高い品だという
宗照氏作の銀瓶。鍛金と彫金の2技法によって仕上げられる。宗照氏が手がける銀器の中でも特に人気の高い品だという

伝統には3つの要素があると宗達氏は言う。「残す」「加える」「省く」だ。江戸時代から300年以上にわたって受け継がれてきた技のエッセンスを「残し」ながら、新しい時代に求められる要素や自分の個性を「加え」、さらに時の中で古びてしまった要素を「省く」。そのような営みがあるからこそ、伝統は続いていくのだと。

「私は、今も師匠である父の下で働けていることがとても幸運だと思っています。師匠が銀師の技をしっかり守ってくれているおかげで、自分は伸び伸びと新しいことにチャレンジできます。流行を取り入れてみたり、遊び心を加えてみたりと、いろいろな工夫ができるところに職人としての醍醐味を感じます」

父・宗照氏は、職人は商売人でもあると繰り返し言う。お客さんがいなければ、職人はない。だから、お客さんとの縁を大切にし、お客さんに求められる銀師になってほしい──。師匠のその教えを宗達氏は胸に刻む。

「昔は、職人には技術さえあればよかったんです。しかし今の時代は、お客様としっかりコミュニケーションを取らなければいけません。銀について説明し、提案し、職人としての自分の気持ちを伝える。それがお客様との縁をつないでいく方法だと思っています」

「宗照」の名を継ぐ3代目は、4人のうちの誰になるのか。それはまだ決まっていない。宗照氏は言う。

「私が健在なうちは、ただそれぞれに研鑽を積み、私が引退する日が来た時になって、名前を受け渡せればいい。そう思っています」

父、兄、姉らに囲まれ、宗達氏は鍛錬を続ける。「銀は人に似ている」と彼は言う。たたかれれば強くなり、磨けば光り、ほったらかしにされればくすんでいく。銀のように強く、銀のように光る職人になりたい。それが今の宗達氏の思いだ。その思いを胸に、師の技を継承し、自らの技を鍛える日々が続いていく。
(参考文献:『金・銀・銅の日本史』村上隆/岩波新書)

伝統の技法にのっとった宗照氏作のコップ(左)と、現代的な感覚を加えた宗達氏作のコップ(右)。個性の違いが際立つ
伝統の技法にのっとった宗照氏作のコップ(左)と、現代的な感覚を加えた宗達氏作のコップ(右)。
個性の違いが際立つ
〈取材後記〉

東京・蔵前駅から徒歩7分ほどの所にある工房にてお話を伺いました。宗照さんと宗達さんのインタビューをしているそばでは、お兄様方が黙々と仕事を続けていて、まさにものづくりが日常そのものなのだということが分かりました。お父様の話を当意即妙にフォローして銀という素材や銀器の特長を説明する宗達さんは、まさしく頼もしい跡取りという感じ。お父様の名を継ぐのが誰かは未定とのことでしたが、誰が継いでも伝統の技は確かに残っていくに違いない。そんなことを強く感じさせられる取材でした。

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