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財政危機を切り抜けた御台所(みだいどころ)

日野富子

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応仁の乱を終わらせたのは御台所(みだいどころ)だった...。室町幕府将軍の職務を放り出して芸術文化に没頭する夫、足利義政に代わって財政を切り盛りした日野富子。戦火で焼け野原になった京都で、権威の衰えた幕府と朝廷を支え続けた高いマネジメント能力について、新たな視点で再評価します。

日野富子はなぜ「守銭奴」と呼ばれたのか

近年になって世界では女性が国家や組織のリーダーを務めるケースが今まで以上に増えています。2021年アメリカではジャネット・イエレン氏が財務長官に就任しました。アメリカ史上、初めてのことです。イエレン氏はアメリカの中央銀行FRB(連邦準備理事会、Federal Reserve Board)の議長を務めるなど確かな実績があり、ジェンダーに関わらずキャリアから見ても順当な就任といえます。

日野富子像(宝鏡寺蔵)
日野富子像(宝鏡寺蔵)

アメリカの財務長官は日本では財務大臣に相当しますが、大蔵省の時代も含めて、このポストを女性が担当したことはありません。ただ、日本でも今から500年以上前に国家の経済に深く関わった女性がいます。室町幕府の第8代将軍、足利義政の正室だった日野富子です。江戸時代の戯作者たちから金銭に対する欲が強い「守銭奴(しゅせんど)」といわれ、北条政子と同じように悪女として扱われることが多い日野富子ですが、その評価は適切なものなのでしょうか。

足利義政像(伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)
足利義政像(伝土佐光信画、
東京国立博物館蔵)

日野富子は1440年、足利将軍家と深い姻戚関係をもつ公家の日野家に生まれ、1455年、16歳で足利義政の正妻となります。義政は将軍としての職務をおざなりにし、銀閣寺を創建したり、芸術や文化に没頭した将軍として知られています。いうなれば芸術家肌の道楽者で、義政が仕事をおろそかにする分、誰かがその穴埋めをしなくてはならない。その役割を担ったのが富子だったわけです。史実をつぶさに検証すると「守銭奴」のような汚名を着せられる女性ではなく、これまでのステレオタイプな評価が変わりつつあります。

富子の人生の契機となったのは「応仁の乱」です。数年前になぜか大ブームとなった応仁の乱は、戦国時代のような英雄も登場せず、何が争いの原因なのかも曖昧なまま、ズルズルと11年も続いた戦です。このよくわからないありさまが、不透明で出口のない低迷期が続く現代の日本の現状と似ている。そんなことから共感を得たのではないか、と分析する向きもあります。

『真如堂縁起絵巻』より応仁の乱の部分(掃部助久国画、真如堂蔵)
『真如堂縁起絵巻』より応仁の乱の部分
(掃部助久国画、真如堂蔵)

応仁の乱は応仁1年(1467年)に起こり、文明9年(1477年)まで続いたことから、最近では応仁・文明の乱ともいわれます。将軍である足利義政の後継者争い、管領の畠山氏や斯波(しば)氏の相続争いを発端に、それぞれの利害や思惑が複雑に絡み合い、細川勝元の東軍と、山名宗全の西軍が激突します。
日野富子は乱の当事者のひとりです。義政と富子の間には男子が生まれなかったため、義政は弟の義視(よしみ)を次期将軍にして、自分は隠居しようとしました。義視は僧の身でしたが、兄の執拗な依頼によってわざわざ還俗(げんぞく)して将軍になることを決意します。ところが、その矢先に富子が男子を授かり、義視との対立が生まれます。ただ、その対立は応仁の乱のほんの一部に過ぎず、東軍側だった義視がやがて西軍につくなど、戦局は混乱を極め、泥沼化していきます。この終わりの見えない戦に決着をつけたのが富子でした。

利害を調整して、応仁の乱を終わらせる

日野富子はどのようにして応仁の乱に決着をつけたのでしょう。まず仲違いしていた足利義政と義視の兄弟を和解させます。さらに戦乱の後半からキーパーソンとなっていた西軍の好戦派、大内政弘と幕府との交渉を取り持ち、彼を四カ国の守護職として安堵、すなわち所有権を承認し、官位も上げることで和睦させて京都から撤収させます。政弘と対立していた乱の中心人物である畠山義就(よしひろ/よしなり)も、この撤収によって戦う意味がなくなり京都から退去。その見返りとして富子は義就に1000貫文を貸し付けた(一説には贈与とも)といわれています。
意地の張り合いで引っ込みがつかない状況において、それぞれの利害関係を見極め、落としどころをうまく考えた調停であり、富子の提案は出口戦略を見失っていた当事者たちにとっても歓迎すべきものだったといえます。

足利義尚像(地蔵院蔵)
足利義尚像(地蔵院蔵)

長引く戦乱で幕府の財政は混迷を極め、財源を確保するために行ったのが、「京の七口」と呼ばれる要所に関所を設け、財源に当てることでした。この施策は人々の不評を買いましたが、他に打つべき手がなかったとも考えられます。応仁の乱で京の町は甚大な被害を受け、幕府どころか朝廷の財源も困窮していたからです。歴史ある神社・仏閣はもとより、天皇の御所まで焼失してしまい、当時の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)は将軍家の邸宅である室町第で10年間、居候するという苦渋に満ちた生活を強いられます。そうした厳しい財政を切り盛りしたのが富子でした。
1474年には義政が隠居し、子の義尚(よしひさ)が第9代将軍に就任。まだ9歳だった彼をサポートする後見人として富子は、より深く政治に関わるようになります。

上:尋尊像(興福寺蔵)下:銅銭(イメージ)
上:尋尊像(興福寺蔵)
下:銅銭(イメージ)

奈良の名刹、興福寺大乗院の門跡(もんぜき)、尋尊(じんそん)らが著した日記である『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』では、「御台一天御計之間(みだいいってんおはからいのあいだ)」という記述があります。これは御台所である富子が天下のことを仕切っているという意味で、政権の中枢が将軍ではなく、富子だったことを記しているのです。権力者の元には料足(銅銭)や刀剣などの贈り物が集まります。富子はそれらを私財として蓄え、現代の貨幣価値にして70億円ほどの資産を有していたと伝えられます。現代のコンプライアンスからすると賄賂なのですが、当時は大名などの陳情を聞く見返りに金品を受け取ることが、将軍家ではごく普通に行われていました。こうした蓄財を富子は経済的に困窮する朝廷への献金や献品、内裏の修復や新邸の築造、さらには戦乱で焼かれた神社・仏閣などの修復に当て、世の平安を願ったといわれています。

足利将軍家を存続させるためにも朝廷との良好な関係を維持することは大切であり、将軍の後継となった子の義尚のために有利な政治環境を整えたいという思いもあったようです。京都の米座といわれる米の取引市場で利益を上げたという言い伝えがありますが、これは戦乱で不足する米を蓄えるための米蔵を建てる計画があった話に尾ひれがついたものといわれています。富子の実家である日野家の領内が商人の多く住むところで、経済活動が盛んだったため、領内で行われた商いがすべて富子のしたことに見えてしまったのではないか、とも考えられています。

将軍失格の足利義政の代役を務める

そもそも日野富子が幕府の政治に深く関わるようになった原因は、足利義政に政権を仕切る能力と意欲がなかったからといえます。義政がもっとも好んだのは造園や山荘づくり、能や茶などの芸術文化であり、面倒な政治のことは弟の義視や子の義尚にまかせて、自分の愛する美の世界に没入したかったわけです。政治家として彼がいかに適性がなかったかを示す逸話として、次のような例があります。

『洛中洛外圖上杉本陶版』より花の御所(京都アスニー蔵)
『洛中洛外圖上杉本陶版』より花の御所
(京都アスニー蔵)

1461年には室町時代最大の飢饉である「寛正(かんしょう)の大飢饉」が起こりました。京都だけでも死者は8万人以上に達し、賀茂川(鴨川)は死体で埋めつくされたとされます。この惨状の中でも義政は人々の救済や飢饉対策をすることはなく、莫大な費用をかけて、3代将軍の義満が造営した「花の御所」と呼ばれる大邸宅の再建にとりかかるのです。
これを見かねた当時の後花園天皇は義政をいさめる和歌を送り、ようやく工事が中断されたといいます。義政が政治や経済、庶民の暮らしぶりに関心がなく、いかに浮世離れした人物だったかを如実に語るエピソードといえます。

銀閣寺
銀閣寺(Oilstreet-投稿者自身による作品,CC表示2.5,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23497660による)

足利義政は隠居後も義尚に決して譲らなかった利権が2つありました。1つ目は外交貿易権で、明との貿易によって義政は巨額の利益を手にしています。その大半を国家運営に使うのではなく、東山の銀閣寺の造営に充てようとしていました。2つ目は寺社統制権です。これによって寺社などの荘園領主層を山荘の造営に協力させることができました。造営工事は足かけ8年にわたる大がかりなもので、1482年から着工し、義政が亡くなる直前まで行われました。

本来は国政に投入されるべき資金が義政個人の趣味に使われてしまうため、富子は自らの才覚で蓄財し、国家の財政を切り盛りする必要があったのです。富子が銀閣寺の造営に資金を提供しなかったと非難する声もありますが、国家の財政を運営する立場にあった富子にとってそれは当たり前の話で、むしろ責められるべきは義政の政治能力、金銭感覚、倫理観の欠如であるといえます。

足利義政の後を継いだ義尚は容姿端麗で武芸にも秀で、政務を投げ出した義政と違い、積極的に政治に関与するかに見えました。しかし酒色に溺れ、1489年に25歳の若さで亡くなります。その直後の1490年、義政が逝去。そして富子は1496年に57歳でこの世を去ります。富子の亡き後、将軍家の権威はますます弱まり、幕府は機能不全となり、戦国の動乱へと突入します。富子が室町幕府を弱体化させたという見方がありますが、義政や義尚の仕事ぶりを見ると、すでに幕府には国家を運営する力はなく、むしろ崩壊寸前だった幕府を富子が延命させたと見ることもできます。

今こそ見直したい日野富子の功績

富子は為政者として優れていただけではなく、和歌や連歌をたしなむ文化人でもありました。また当時を代表する学者である一条兼良(かねら/かねよし)から、古典や政道などの講義も受けるなど、世の中の動きに気を配り、学びの姿勢を失わなかったことも、富子が高い経営能力を発揮する要因だったといえます。その一条兼良が足利義尚のために書いた帝王学の教科書ともいうべき『樵談治要(しょうだんちよう)』には8項目にわたって将軍の心得が説かれていますが、7番目に次のような内容があります。

「日本は古来から姫氏国(きしこく)といって、女性が治める国だった。始祖は天照大神で、神功皇后(じんぐうこうごう)は中興の女王である。推古天皇以下、古代には数代の女帝が続いている」

といった記述のあとに

「男女に限らず天下の道理にくらくなければ、政治をすること、または政治を補佐することに支障はない」

一条兼良が日野富子に向けたリップサービスだろう、と捉える向きもありますが、中世の日本で政治参画の男女平等を公に認めさせたという意味で、富子は先駆者としてもっと高く評価されるべきかもしれません。

左:ロザベス・モス・カンター著「企業のなかの男と女ー女性が増えれば職場が変わるー」(1995年、生産性出版)、右:イメージ
左:ロザベス・モス・カンター著
「企業のなかの男と女ー女性が増えれば職場が変わるー」
(1995年、生産性出版)、右:イメージ

ハーバード大学の社会学者、ロザベス・モス・カンター氏は1983年に「トークン主義」という概念を生み出しました。特定のジェンダーや人種の占める比率が、ある集団の中で15%以下という状態では、その人たちは「トークン(象徴)」であり「目立つが孤立する」という苦しみを味わうという考え方です。25%ではまだ「マイノリティー(少数派)」で、35%を超えて初めて、組織の中で公平な機会が得られるようになるといいます。
最近の調査では一般的に取締役会に女性が2人いても「トークン」からは抜け出せず、3人以上の女性がいるときに、最高経営責任者(CEO)に女性が任命される確率が高まることも示されています。
意思決定の場に女性が増えるほど女性のリーダーが生まれやすくなるという考え方は、女性の参画が後手に回っている日本にとっては傾聴すべき見識といえます。アメリカ副大統領になったカマラ・ハリス氏は就任演説で「私は最後ではない」と言いましたが、政治や経済の中枢にどんどん女性が進出することが、実際に世の中を変える力になることを彼女は身をもって体験しているのだと思います。

女性をはじめとする人材の多様性が企業価値の向上に結びつくことはいまや世界の常識で、登用したいがポストに見合う女性がいない、女性が重要ポストにつきたがらない、そもそも女性社員が少ないといったことは言い訳に過ぎず、女性リーダーを増やすにはどうしたらいいかを真剣に考える時期が到来したといえます。
世界最大規模の投資家グループである国際コーポレート・ガバナンス・ネットワーク(ICGN)に参加する機関投資家の資産総額は54兆ドル(約5900兆円)にのぼるといわれ、投資家たちは女性の登用が遅れている日本企業の動向をチェックし、経営層に女性が少ない企業には投資を控える姿勢を示しています。かつて日野富子に国家の財政を委ねたように、今こそ女性の力を積極的に活用することが日本企業に求められているといえるでしょう。

日野富子から学ぶこと

組織が機能不全な場合は自ら指揮をとる。

経営能力はジェンダーに左右されない。

優れた経営判断が世の中に安定をもたらす。

つねに学ぶ姿勢を失わないことが大切。

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