政略結婚からはじまった運命
出展:東京新聞Web「<女性に力を>2020年女性幹部30%達成遠く
一橋大学教授・佐藤文香さん/ ジェンダー専門家・大崎麻子さん」 |
イギリスの経済誌「エコノミスト」は毎年、女性の働きやすさについて主要29カ国を評価してランク付けをしていますが、2021年3月8日に発表されたデータでは、日本は下から2番目の28位でした。
世界経済フォーラムでも毎年各国の「ジェンダーギャップ指数」を発表していますが、2019年12月の発表では世界153カ国のうち、日本は121位でした。2018年の110位からさらに後退しています。ランクを下げている原因は、政治・経済の分野のスコアが低いためで、政治は144位、経済は115位でした。「日本はもともと政治・経済に女性の参画が少ない国だったから仕方がない。」果たしてそうでしょうか。日本の歴史を遡ると、この分野でめざましい功績を残した女性が少なからずいます。
上:持統天皇(出典:百人一首之内)
下:乙巳の変(出典:談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』) |
その代表ともいえるのが、飛鳥時代の女帝、持統天皇です。かつて日本には推古天皇にはじまり、8人の女性天皇がいました。なかでも持統天皇は、夫である天武天皇の後を継ぎ、現代の日本のかたちをつくった、日本古代史上最強の天皇ともいわれています。1300年以上も前の時代の話ですが、現在のジェンダー問題を考えるうえで、何らかのヒントをもたらしてくれるのではないでしょうか。
持統天皇が誕生したのは645年。当時の権力者だった蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された乙巳の変(いっしのへん)が起こった年でした。持統天皇はその事件の中心人物であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)と、遠智娘(おちのいらつめ)の娘として生まれました。鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)が即位前の名前です。
大海人皇子(のちの天武天皇)肖像
(大和国矢田山金剛寺蔵) |
その人生はちょっと辿るだけでも驚きの連続です。シェークスピアの戯曲以上にドラマチックかもしれません。
5歳のときに祖父の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)が謀反の疑いをかけられ自害し、母の遠智娘がそのショックで亡くなってしまいます。祖父と母を死に追いやったのは、なんと父である中大兄皇子でした。そして13歳で父の弟である大海人皇子(おおあまのみこ/のちの天武天皇)の妻に。このとき姉の大田皇女(おおたのひめみこ)も一緒に嫁ぎ、姉妹で叔父の妃となりました。中大兄皇子が大海人皇子の離反がないようにと布石を打った政略結婚でした。大海人皇子にはすでに複数の妻があり、そのなかに歌人として名高い額田王(ぬかたのおおきみ)がいました。中大兄皇子は娘たちを嫁がせた代わりに額田王を妻に欲しいと要求します。大海人皇子はそれを受け入れざるを得ませんでした。いわば略奪愛とパワハラで、現代ではすぐさま炎上しそうなジェンダー格差の連続ですが、鸕野讚良皇女はそれを克服する強さと才覚を備えていました。
大海人皇子の窮地をサポート
現在の白村江
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鸕野讚良皇女が10代の後半になったとき、日本を揺るがす大きな戦争がありました。「白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦い」です。朝鮮半島で関係の深かった百済が唐と新羅によって滅亡の危機に陥り、その窮状を救うべく出兵しますが惨敗。この戦いの過程で斉明天皇(さいめいてんのう)が崩御し、その子である中大兄皇子こと天智天皇が即位します。唐が攻めてくるのを恐れ、天智天皇は各地に城を築くなど防衛を強化しますが、これが国の財政を逼迫することとなり政権は弱体化します。そして天智天皇の健康状態も次第に悪くなっていきます。
天智天皇は死の間際に、大海人皇子に後を託しますが、皇子は後継者となることを辞退し、僧となって吉野に隠居します。天智天皇の本心は子の大友皇子(おおとものみこ)に後を継がせることにある。そう考えた大海人皇子は命が狙われると察し、しばらくは吉野に隠れて力を蓄え、時期を見て大友皇子を討つという戦略を練ります。これが古代日本で最大の内乱「壬申の乱」に発展します。672年のことです。
このとき大海人皇子の妻のなかで唯一、行動を共にしたのが鸕野讚良皇女でした。大海人皇子にとっては妻であるとともに戦友。プロジェクトチームを共同で運営するパートナーのような存在だったと考えられています。鸕野讚良皇女は学習意欲が旺盛で占星術や陰陽道、兵法にも通じていたといわれています。まだ呪術的な世界観が残る社会のなか、先進国の中国からもたらされた学問はいわば現代の先進テクノロジーのようなもので、その幅広い知識と明晰な頭脳が大海人皇子をよく補佐したといわれています。
瀧浪 貞子著「持統天皇-壬申の乱の「真の勝者」」 (中公新書)
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僧となり吉野に向かう大海人皇子を見送りながら、朝廷の官人たちが「虎に翼をつけて野に放つが如し」と述べたという記録があります。日本古代史の研究者である瀧浪貞子氏は『持統天皇 -壬申の乱の「真の勝者」』(中公新書)のなかで、「虎のように勇猛な大海人皇子に、さらなる飛躍をもたらす翼とは鸕野讚良皇女を指す」という説を取り上げています。鸕野讚良皇女の政治における才覚が、それほど世の中に広く知れ渡っていたとする解釈です。
戦がはじまると、大海人皇子は前線に出向き、鸕野讚良皇女は幼い皇子たちを守りながら後方支援のロジスティクスを受け持ち、陣営を勝利に導きます。そして673年、大海人皇子は天武天皇、鸕野讚良皇女は皇后となります。27歳のときでした。
現代のビジネス社会では夫婦で経営する企業が増えていますが、成功の秘訣は目標とモチベーションを共有して2人が常に同じ方向を向いていることだといいます。大海人皇子と鸕野讚良皇女は、まさにそうした関係で、白村江の戦いでの敗戦を踏まえて、中国と対等に向き合える中央集権国家を築かなければならないという目標を共有し、必ず実現したいという強いモチベーションをもっていました。男女共同参画などという言葉が存在していない時代から、ジェンダーの壁を超えた強力タッグを組んでいたのです。
天下のことはすべて皇后に伝えよ
即位後、天武天皇は飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)に都を移し、鸕野讚良皇后とともに数多くの政策に取り組みました。10人いた妻のなかで、政務に関わったのは彼女だけでした。天智天皇は藤原鎌足を側近として重用し、さまざまな相談をしながら政治を行ってきましたが、天武天皇の場合、鎌足に相当する相談相手が皇后だったといわれています。天武天皇は一人の大臣も置かず、ほとんどの政務を皇后と考えながら行いました。
天武天皇が最初に着手したのが官人登用の制度化でした。人材を国内から広く集めることを目的としたもので、女性の宮廷への出仕も促進されました。女性は家にいるべしという観念はなく、夫の有無や年齢に関わらず、働く気のある女性は広く採用されたといわれます。伊勢神宮の社殿の整備、中国の律令制度を取り入れた法典「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」の公布、日本最古の流通貨幣といわれる銅銭「富本銭(ふほんせん)」の鋳造、『古事記』や『日本書紀』につながる歴史書の作成、新しい都の建設など、さまざまな事業を天皇と皇后のチームは推進していきます。
天武天皇は皇室のガバナンスにも重きを置き、壬申の乱のような後継者をめぐる骨肉の争いが起きないよう、679年「吉野の盟約」を行います。天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、天皇と皇后は6人を父母を同じくする子のように接し、皇子たちはともに協力するという誓いを立てたのです。皇子の序列は、草壁皇子(くさかべのみこ)が最初、大津皇子(おおつのみこ)が次、最年長の高市皇子(たけちのみこ)が3番目としました。
やがて天武天皇は病に伏せがちになり、天下のことは皇后と皇太子の二人にまかせると公式に発表します。皇太子の草壁皇子はあまり有能とはいえず、実質的には鸕野讚良皇后が政治を取り仕切るようになります。そして686年、天武天皇は崩御します。56歳(一説には57歳)でした。
後継者の草壁皇子は25歳で当時は30歳にならないと天皇として認められないという慣習があり、皇后は「称制」という制度で皇子の後見人として政務を行います。その後まもなく大津皇子に謀反の疑いがあり、やむなく皇子は死罪に。天皇と皇后、6人の皇子たちと交わした「吉野の盟約」が破られてしまいます。大津皇子は皇后の姉ですでに亡くなっていた大田皇女の遺児であり、武芸に優れ、才能も人望もあり、草壁皇子の補佐役として大いに期待していただけに皇后の悲しみは大きかったようです。さらに689年、草壁王子が27歳の若さで亡くなってしまいます。皇后はさらに大きな悲しみに襲われ、わが子を天皇にという願いもはかなく消えてしまいました。
日本のグランドデザインをつくる
草壁皇子の急死によって、鸕野讚良皇后はついに自ら即位します。690年、持統天皇の誕生です。自分の子を天皇にする願いは断たれましたが、草壁皇子には珂瑠皇子(かるのみこ)という子があり、この孫に天皇の座を受け渡すことを新たなよりどころとします。草壁皇子、大津皇子を失いましたが、第3の皇子である高市皇子は存命で彼を太政大臣に任命し、ともに政務を行います。高市皇子は天武天皇の長男で有能な人でしたが、母親の尼子娘(あまこのいらつめ)が皇族ではなかったため、天皇の後継者になる資格がありませんでした。ですが、壬申の乱のときからよく働き、天皇と皇后を支えました。高市皇子に限っては「吉野の盟約」はしっかりと守られたといえます。
藤原不比等(菊池容斎画)
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さらに持統天皇を支える大きな存在となったのが藤原不比等(ふじわらのふひと)です。天智天皇の重臣だった藤原鎌足の次男で、草壁皇子に仕えていたときに能力が認められ、珂瑠皇子の後見人としての役割も託されています。天智天皇の娘である持統天皇としては、父の参謀役の子孫ということもあり、高い信頼を置くようになりました。中国の法や文書に精通していた不比等は、やがて持統天皇が推進する国家事業の中心的人物となります。
現在の伊勢神宮
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持統天皇より前の女帝、推古天皇や皇極天皇(斉明天皇)は次の天皇が決まるまでのつなぎ役として、時の実力者に委譲された天皇でしたが、持統天皇は自らの意志で即位した天皇です。自らが最高権力者であり、自らが国を守らなくてはなりません。
そこで行ったのが儀礼の強化でした。天皇を神とし、民の心をまとめることが国家安定の基盤になるという、現在の日本の起源といえるような国のかたちを決めたのです。三種の神器を用いた即位の儀礼によって、天皇は神に選ばれた天子であると表明し、新しい皇位継承のかたちをつくりました。「日本」という国号や「天皇」という称号は持統天皇が確立させました。藤原京の建設、伊勢神宮の整備、日本書紀や万葉集の編纂など、多くの事業が持統天皇の治世においてほぼ成し遂げられました。
ドイツのメルケル首相、デンマークのメッテ・フレデリクセン首相、ノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相、フィンランドのサンナ・マリン首相、エストニアのカーヤ・カラス首相、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相、台湾の蔡英文総統など世界の各地で女性リーダーの活躍を目にします。そうした姿を見るにつけ、日本は遅れていると思ってしまいがちですが、1300年以上前に持統天皇のような女性がいたことを考えると、かつては進んでいたところもあったように思われます。
※イメージ
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LinkedIn(リンクトイン)ジャパンが2020年9月に日本女性を対象に行った調査では、「もし自身が男性だったら、今よりもキャリアの立ち位置は良かったと思うか?」という質問に対し、43%もの女性がそう考えていると回答しています。ちょっと深読みすると、43%の人が何らかの制約のせいで、本来の自分の能力がちゃんと活かせていないとも受け取れます。持統天皇のような能力を発揮するのはむずかしいかもしれませんが、もし日本の女性たちが自分の才能を十分に活かせる環境が整えば、日本のポテンシャルは極めて高く、日本の国のかたちはガラリと変わるのではないでしょうか。
持統天皇から学ぶこと
◎自分の能力を認めてくれる人に出会うべし。
◎同じビジョンを共有できる仲間がいると強い。
◎どんな困難に直面しても折れない心が大切。
◎前例のないことも自分で切り拓く気概をもつ。